「姫たちの落城」第4章 小松姫・関ケ原の戦い

 慶長3年(1598)8月、秀吉は幾多の心配をこの世に残して死んでいった。それまで面従腹背していた家康は、天下取りの意向をあらわにし、秀吉の遺言を無視して行動を起こし始めた。五大老の一人会津の上杉景勝に目をつけ「謀反の疑いがある」と上洛を求めた。この難癖に反論したのが、上杉家家老直江兼続である。江戸っ子を思わせるような小気味よい論調(直江状)に切れたふりをして家康は、軍勢を仕立てて会津にむかった。これを待っていたかのように、家康の陽動作戦にのせられて石田三成は挙兵した。家康は下野国小山(栃木県小山市)で軍を止め、これからの方針について諸将に問いかけた。黒田長政の下工作が功を奏し福島正則の第一声で「三成討つべし」と大勢は決まった。一旦は東軍に加勢をして共に会津にむかった昌幸は、犬伏(栃木県佐野市辺り)で信之、幸村兄弟を呼び寄せ、これからの真田家の将来について密談に及んだ。長男信幸は徳川四天王本多平八郎忠勝の長女小松姫と婚姻、次男幸村は三成の盟友大谷吉継の娘と婚姻していた。また、昌幸の娘も三成の正室の弟に嫁いでいた。つまり三成の義理の弟の正室ということになる。それぞれに譲れない事情があった。「もともとは今回の上杉征伐は、家康の天下取りのためではないのか」昌幸は家康に対し快くは思っていなかった。先年、沼田領をめぐって家康と戦った際、秀吉は利便を図ってくれたし、景勝は援軍を出してくれた。また、昌幸は西軍に与して勝利すれば、大大名になれるという野心があった。いやそれ以上に両軍戦闘の混乱に乗じて天下を盗ってやろうかとも考えていた。「わしと幸村は上田に戻って家康と戦う、信幸は徳川につけ、さすればどちらが勝っても真田の血は残る」世にいう「真田犬伏の別れ」である。上杉、武田、北条、徳川のはざまで家を存続させてきた昌幸としては、この判断が賢明の策であり自然であった。

 昌幸幸村父子は夜陰にまぎれ上田城への最短距離、碓氷峠を越えず沼田城へむかった。昌幸が孫の顔をみたいためであった。25里近い道を駆けて夕刻近くに沼田城の大手門にたどり着いた。「大殿がご到着である。門を開けよ」とよばわると石垣の上に薙刀を小脇に握った信幸の正室、小松姫が現れ「おお嫁女 上田へ戻る途中じゃ 暫く休ませてくれ」「昨夜わが殿より使者が参り、徳川様についたとの事です。かようになりましたからには、父上様といえども敵味方、城内にお迎えする訳には参りません」今までしとやかに仕えてきた小松は凛々しい女城主に変身していた。「父上参りましょう」昌幸が馬を返した時、「お待ちください、こちらをご覧ください。」小松姫が2人の男の子を携えていた。昌幸は暫く目を放さなかったと、真田氏の家記「滋野世記」「真田御武辺記」などには記される。この逸話には別の物語もあり、小松姫は義父昌幸の老練な行動を恐れと同時に、夫信幸に仕える家臣たちは昌幸と深い関わりをもっていたため、内応を恐れ城内に入れなかったとされている。小松姫は城から少し離れた正覚寺に、昌幸一行を招き入れ子供たちを対面させた。しばしの祖父としての安らぎであった。翌朝、沼田を去った昌幸は利根川を渡り中山峠に出た。昌幸は峠の上から沼田城を見やり「流石は本多平八の娘、真田の家もこれで安泰ぞ」と幸村につぶやいたと云う。次回は「関ケ原の戦い」それぞれの精算です。<チーム江戸>

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