「姫たちの落城」第4章 小松姫・関ケ原それぞれの精算

 慶長5年(1600)8月24日、秀忠率いる徳川正規軍3万8千の軍勢は上田城にむかった。当時京へ上る中山道(東山道)のルートは、軽井沢から長久保を経由して下諏訪、塩尻に至り、更にここから岐阜に進み琵琶湖東岸に出て、草津で東海道と合流して京都に向かった。では何故秀忠は信州上田に迂回したのであろうか?8月24日の秀忠の書状に「信州真田表仕置のため、明24日出馬せしめ候」と記されている。また、沼田城にいた信幸に、父昌幸の上田城を攻めよと命令。寝返る可能性がある肉親の息子に、父親を攻めるように命令した。家康親子は何度も辛酸を舐めさせられた昌幸に対し、必要以上の敵対意識を抱いていた。9月2日、小諸についた秀忠は「我々の軍に味方すべし」と昌幸を強要した。これを受けて昌幸は家臣たちと協議するとして、すぐには返事をしなかった。なかなかの策士である。昌幸の作戦は当初から、上田城に德川正規軍3万8千を留め置き、戦場に参加させない事であった。一方の家康率いる軍隊は、福島正則はじめ豊臣恩顧の混成部隊であり、三成憎しの集合部隊であったため、いつ裏切り者が出てもおかしくない状態であった。昌幸は勝負に関係なく、ただここに秀忠軍を留めておけば良かったのである。さすれば数に勝る西軍が勝利するであろうと予測していた。案の定若い秀忠は怒りにまかせて昌幸の思惑通り、5日間も上田城に釘付けになっていた。9月10日家康からの催促の使者がきて、秀忠ははっと気付いて、関ヶ原に向かったが時既に遅かった。9月15日早朝関ヶ原では両軍が対峙していた。前日徳川正規軍3万8千はまだ中山道を駆けていた。第2次上田合戦である。

 関ヶ原は朝霧に包まれていた。家康譜代は松平忠吉と井伊直政、他は豊臣恩顧の大名たちである。天下分け目の合戦は、家康にとって身内の少ない何とも心寂しい戦いであった。戦いは昼近くまで互角で来たが、家康の脅しでかねてより内応していた、小早川秀秋が陣地から駆け下り、大谷吉継の軍勢を襲ったことから、東軍有利に傾き、勝敗は1日で決着してしまった。それでも徳川正規軍はまだ駆けていた。結果辛くも勝利した徳川軍は、正規軍なき戦いで、勝利に導いてくれた豊臣恩顧の大名たちに、見返りを与えなければならない羽目に陥った。福島正則49万石、細川忠興39万石、黒田長政52万石、東軍についた真田信幸は上野国沼田領に父昌幸の信濃国上田領を併せてて9万5千石の大名となるなど、外様大名たちに大盤振る舞いをしなければならなかった。この結果が江戸に開府以降、数代にわたる将軍の諸国大名家の取り潰し、減封につながっていった。家康入府時の天正18年(1590)においては、所領6ヶ国240万石のうち約半分の100~120万石が直轄地(幕府領)化された。関ケ原の戦いで没収した662万石余は、論功行賞の加増や徳川一門、譜代に割り当てられたり直轄地に回された。江戸幕府初期の慶長10年(1605)日本全国総石高約2217万石に対しその約10~11%が、幕府直轄領(天領)230~240万石であった。初代家康から3代家光、5代綱吉にかけ、徳川一門を始め、譜代、外様など、例外なしに改易政策を施行した。元禄10年(1697)になると、利根川の東遷による埋立開墾と綱吉の大名取り潰しで、総石高は約2580万石と伸び、その15,5%の400万石が直轄領となった。8代吉宗は無嗣断絶による公收で450万石を幕府領とし、幕末まで幕府は410万石を直轄領として維持してきた。個々の年度の石高は史料によっても異なる。

 関ケ原の戦いが東軍の勝利で終わった後も、昌幸は上田城に立てこもって徹底抗戦を主張したが、信幸の説得により開城した。昌幸、幸村父子の助命を信幸と小松姫の父本多忠勝も加わって、自分たちの功績に替えてでもと嘆願したが、散々煮え湯を飲まされてきた家康は強硬に拒絶した。家康以上に頑なに拒絶したのは秀忠である。真田親子に散々翻弄され、関ヶ原に遅参するという前代未聞の失態をしでかした秀忠にとって、真田親子は許されるものではなく、強硬に死罪を主張した。しかし、2人の嘆願に折れる感じで家康は、昌幸親子は紀伊国高野山山麓九度山に蟄居という処分となり、信濃国上田領は信幸に与えられた。信幸は「信之」と父の幸を之に改め、父との快別を示したが、九度山に流罪された父や弟に、信之と小松姫は倹約に努め、毎年食糧や信州の四季の物を届け続けた。父昌幸はこの9年後65歳で夢を追い続けて死んでいった。天和2年(1616)4月、長年の懸案事項を解決した家康は、緊張感から解放されたのか鯛の天麩羅にあたり(胃癌説もあり)他界した。同8年、幕府は信濃国松代藩(長野県長野市)藩主酒井忠勝(忠次の孫)に3万8千石を加増して、出羽国鶴岡(山形県鶴岡市)に移封、酒井家はその後移封されることなく維新まで続くことになる訳であるが、その松代に上野国沼田領の真田信之を13万石の大名として移封した。真田家も維新までここで続く。松代の転封することになった信之は、尼ヶ淵という千曲川の激流を天然の要害とした上田城大手門右手に、父昌幸が据えた「真田石」と呼ばれた大きな台形の石の事を思いだした。この石を松代に移そうと考え、色々と手当てしたがにっちもさっちもいかなかった。信之は改めて父の偉大さを痛感したという。

 本多忠勝が長女小松姫(於子夷)は天正元年(1573)三河に生れた。天正年間の父は「長篠の戦」「高天神城の戦い」「本能寺の変」では「伊賀越え」を果たし、続く「小牧・長久手の戦い」と休む暇なく戦いに明け暮れていたため、娘いねは父親の姿を間近に感じることなく成長していった。はきはきとした男勝りの性格であったとされる。同17年、家康の養女となって真田信幸と結婚した。既に正室清音院殿がいたが、以降小松姫が対外的な仕事をこなし、清音院が領内の奥向きの仕事をこなしていったという。後年、江戸に幕府が開かれ、母親が亡くなると小松姫が江戸の上屋敷に住むようになった。天和6年(1620)江戸の屋敷で病んだ小松姫は草津へ療養に行く事になった。回復を願った湯治であったが、途中2月24日、武蔵の国鴻巣で亡くなった。享年48歳。夫信之を松代の大名に押し上げ、九度山に隠棲した義父昌幸や義弟信繁(幸村)に、仕送りを続け見守った女傑は死んでいった。次回「姫たちの落城」第5章は名胡桃城で攻防の相手となった、北条家に嫁した家康次女督姫の物語です。乞うご期待。             <江戸純情派 チーム江戸>

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