「吉原細見」番外編 ⑧長崎丸山と楠本タキ、イネⅱ

 楠本タキ(遊女名其扇)の外国人夫、ドイツ人フィリップ・フランツ・フォン・シーボルトは、1796年(寛政8年)日本最初の蘭日辞典が発刊された年に、独ヴュルツブルグに生まれた。大学卒業後町医者を経て、オランダの陸軍軍医となった。彼は国の命令でオランダ東印度会社商館の医師として、日本へ赴任することになった。彼の任務は医療行為と同時に貿易振興のため、日本の国状を調べることであった。文政6年(1823)長崎に着任、出島以外の患者の診察を許可されたシーボルトは、長崎鳴滝に家を購入、そこに医学塾を開き、日本各地から集まってきた者たちに、医学などを教え始めた。やがてこの塾で学んだ学生たちは医者や学者に成長していった。この頃、17歳になっていた楠本タキと知り合った。俵屋の娘として文化4年(1807)肥前長崎に生まれたタキは、商館に出入りするために、名目上遊女屋である引田屋に籍をおいていたが、この時シーボルトに見初められ結婚、文政10年(1827)5月6日娘イネが生れた。この時シーボルトは31歳であった。娘イネは正確には日独混血児である。当時ドイツは我が国と国交がなかったため、シーボルトは自らを国交のあるオランダ人と名乗り、入国していたためである。

 タキもイネも楠本という姓で知られているが、もともと苗字があるような家柄でなく、シーボルトを「矢伊勃児篤」という漢字に当てはめて、イネは「矢本(しもと)伊篤(イト)」と名乗っていたのを、宇和島藩主の伊達宗城から「楠本姓」に勧められてそれに従ったという。江戸時代を通して、公的に苗字を名乗ることを許されていた者は、武士、大商人など国民のわずか約6%、百姓や町人たちは権力の許可なく、苗字を名乗る事は出来なかった。中央集権国家建設を目的とした明治政府は、明治3年9月19日、「自今平民苗氏被差許候事」として「平民苗字許容令」を発布した。この法令は封建制度が崩壊、「四民平等」の理念に基づく、身分制度の撤廃政策の一環であったのと同時に、中央集権国家のベースとなる徴税制、徴兵制、学制の確立を目的として、全国民に戸籍制度の創設を進めた。中央集権国家樹立のため、全国民を苗字と名前で把握する必要に迫られていたのである。

 文政9年、イネが生まれる前年、シーボルトは出島のオランダ商館長らと共に江戸へ参府することになった。江戸幕府の将軍に貿易を認めてもらっている御礼と、欧州の見聞録を報告するためである。長崎を出発した一行は北九州から瀬戸内海に出、大坂まで船で航行、東海道を下っていった。往復路多くの人々を診察し、治療法を教えたり怪我の治療をし、その土地の植物を採取しながらの旅であった。江戸では東日本橋にある「長崎屋」を定宿にし、11代家斉や幕府要人に謁見、宿に訪れて来る学者や医療関係者と交流をかさね、医療情報や知識を交換した。この中には桂川甫賢や土生玄碩らがいた。また、集められた書籍や資料はオランダに送られていた。しかし、こうした親子3人の幸せな生活はそう長く続かなかった。文政11年、5年の任期を終えたシーボルトは帰国しなければならかった。滞在中に集めた資料を船に積み込みいざ出航という矢先、折からの暴風雨で船は難破、その際に積荷が破損してしまった。この中に防衛上の機密とされていた日本地図や、葵の紋服がこの中に含まれていた。翌12年この事が問題視され、シーボルトは「日本御構」=国外退去の処分をうけた。いわゆる「シーボルト事件」である。愛娘イネの養育を信頼する門人の二宮敬作らに託し、タキには母子2人が暮す充分な生活費を渡した。シーボルトは想い出にと、妻と娘の姿を描いた螺鈿の香合を作り、その中に2人の髪の毛を入れ、別れを告げオランダへ帰っていった。この時タキ22歳、娘イネはまだ2歳8ヶ月であった。傷心のまま帰国したシーボルトは、日本で調べた資料をまとめ、「日本」「日本植物誌」「日本動物誌」などを出版した。日本を去ってから30年後の安政6年(1859)「日蘭修好通商条約」締結により、国外退去が解かれたシーボルトは息子を伴って再来日した。63歳になっていた。妻タキや娘イネ、昔の門人たちと交流、幕府に招かれてヨーロッパの学問などを教えていたが、3年後日本を去り祖国のドイツミュンヘンで70歳の生涯を閉じた。次回はわが国初の女医、イネの逞しい人生に迫ります。

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