「吉原細見」番外編 8長崎丸山・楠本タキとイネ
江戸時代初期、肥前長崎の街を異国人たちは自由に歩いていた。しかし、寛永13年(1636)「鎖国令」が発せられるようになると、ポルトガル人やスペイン人といった「南蛮人」と、彼らが長崎で一緒になった日本人妻と、その子たちにも国外退去が命じられ、同年8月にはポルトガル船の来航も禁止された。更に「島原の乱」後の寛永16年3月になると、長崎に居住する唐人とオランダ人に対しても、帰国するか日本に留まって日本人に帰化するかの選択をせまり、同年5月、帰国する者とその妻、その子たちに国外退去が命じられ、以降、異国人と日本人女性との接触が禁じられた。その唯一の例外であったのが「丸山遊女たち」であった。長崎出島の表門には「傾城之他女人入ル事禁ズ」の高札が建てられた。
長崎の遊女屋は、外国貿易に来る日本人商人を当て込んで営業を始められた。その時期は寛永18年(1641)オランダ商館を平戸から長崎出島に移す「鎖国令」の完成より早い慶長年間(1596~1614)であるという。鎖国令に合わせて出島が造られるようになると、異国人を対象とした遊郭の営業が許されるようになった。寛永18年、市中に点在していた遊女屋が、大火をきっかけにして丸山町や寄合町に移転を命じられ、遊郭が形成されていった。丸山遊郭の盛衰は長崎貿易のそれと比例、元禄年間(1688~1703)にその最盛期を迎え、遊女数1400以上に達した。しかし、それ以降は減少、平均すると400人前後であったと云う。長崎丸山の実状は、長崎の街は貿易都市であったが、実際に取引を行うのは異国人と京や大坂の商人たちであり、日本からの輸出品も地元長崎産ではなかった。その為地元の落とされる金は、場所の提供代や事務手数料など微々たるものであった。こうした事情から、地元の利益を確保するために必要とされたのが丸山遊郭の建設であった。彼女たちの働きは、海外に流出するはずだった金を国内に還元させた。丸山遊女たちは長崎の地元民たちはもとより、金銀の海外流出を嫌う、江戸幕府からも歓迎された。井原西鶴も「日本永代蔵」で、「長崎に丸山という処がなければ、上方の金銀は無事帰宅するだろう」と記している。こうして地元長崎に貢献していった遊女たちは、地元長崎で一市民として受け入れられていった。彼女たちは25歳の年期奉公が明けると実家に戻り、結婚して子を持つことが当たり前であった。こうした彼女たちの境遇は、島原や新町、吉原とは対称的であった。
長崎に交易に訪れた異国人は、オランダ人や唐人たちであった。当時、明や清の国の人々及び東南アジアの人々を唐人と呼んだ。長崎市内の住民たちは、丸山遊女たちを「太夫衆(たよし)」と呼び、唐人たちは「阿娘(アニヤン)」「嫖子(ビャウツウ)」、オランダ人は「太夫(タユ)」と呼んでいた。今回の主人公「楠本タキ」は丸山の遊女と云われているが、実際に丸山で遊女として働いていた訳ではなく、立場上はオランダ東印度会社の医師として来日していたシーボルトと出会い、見初められ出島に出入りするために、遊女屋に手数料を払って名義だけの籍をおく「名儀遊女」であった。シーボルトは鳴滝塾に住み、タキの事を「オタクサ」と親しみをこめて呼んでいた。彼は医学の他、植物学にも精通し、ある時ガクアジサイの変種を見つけ、初めて見る紫陽花に「ハイドランジア オタクサ」と命名、日本植物誌に掲載するほど、日本人妻楠本タキを愛し尊敬していた。次回「吉原細見」は、おタキさんと娘イネ、孫高子の苛酷な人生を追っていきます。 <チーム江戸>
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