姫たちの落城「意は男子に劣らず」お市の方

新シリーズ「姫たちの落城・意は男子に劣らず」第1章 お市の方と浅井三姉妹 お市の方① 

 <プロローグ>戦国時代は室町時代から安土桃山時代の15th末から16thにかけ、室町幕府の権威が低下したことにより戦乱が頻発、守護(戦国)大名たちの下剋上の時代をいう。一般的には「応仁の乱」応仁元年(1467)細川勝元と山名持豊の争いから、「信長上洛」永禄11年(1568)まで、もしくは秀吉の「小田原戦役」天正18年(1590)までの間だとされる。信長が耕し、秀吉が育てた果実を、家康が懐に入れた。その戦国時代に生きた女性たちは、ただ男たちの打算によって翻弄されただけと思われがちであるが、彼女たちは自らの「意」を持って生きていた。その「意」は男たちを超え、国を盗り、天下を盗ろうとさえした。シリーズ「姫たちの落城」はそんな女たちの物語である。

 織田市は天文19年(1550)頃の生まれで、信長とは母を別にするとされる。また、織田信秀(信長の父)の娘としては、末っ子にあたる存在であったと見られている。信秀は清洲織田家、岩倉織田家のどちらかの娘を正室にむかえたが、その妻に男子が生まれなかったか、早世したためか信秀に側室が迎えられ、信長など男子が産まれた。それにより側室であった女性(芳春院)は継室となり、信長が嫡男になったとされる。こうして芳春院は男子3人を産んだが、他の子の出生には恵まれなかったため、他の側室が産んだ信秀の娘たちとして、犬山殿、乃夫殿、小林殿といった姉たちがいた。市は土田御前の間に五女として生まれた。父信秀は天文21年(1552)3月3日、42歳で死去。市はまだ3歳であったため、その成長は兄信長に庇護された。市は父の葬儀に参列した兄信長の背中を見ながら、私の将来はこの兄に委ねられる事になるであろうと思った。兄とは16歳程はなれていた。芳春院はその後、信長正室に齊藤道三娘、濃姫(帰蝶)が天正元年(1573)死去、その後信長は新しい正室を迎えなかったとされるため、彼女が織田家の「家」の家宰の地位を担っていった。織田市は永禄10年(1567)、兄信長の差配により近江小谷城の浅井長政と婚儀した。この年は信長が稲葉山城を陥落させこれを岐阜城とし、美濃の斉藤道三を平定した年である。市は信長の養女、御娘分として長政と結婚した。5歳年上の夫との結婚生活は5年ほどに過ぎなかった。信長は同年11月「天下布武」の印を使用し始め、その一環として12月には将軍足利義昭に供奉して上洛する意向を天下に示した。信長としては上洛の手段として、単に義昭を擁立したに過ぎなかったが、当の本人義昭は信長を迎えて将軍として権力をふるおうと考えていた。こうしたスタンスの違いから、両者が対立するのは時間の問題であった。やがて義昭は甲斐の武田信玄に上洛を要請した。信玄は上洛のため遠江に侵攻、「三方ヶ原の戦い」で家康を惨敗させるのは、元亀3年(1572)の12月の事である。その信玄が死去するのは翌、年が変った天正元年(1573)4月、信長、家康にとって目の上の瘤が落ちた思いであった。信玄という強力なバックを失った義昭は、同年7月信長に追放され室町幕府は滅亡する。

 浅井長政は父久松の嫡男、浅井家は長年朝倉家と同盟関係にあった。長政の母の姉妹に主家筋の京極高吉の正室、京極マリアがいた。将来、そこに産まれた京極高次の正室になるのが、長政と市の次女初である。この時期、浅井家は主家筋の京極家を擁立しつつも六角氏に従属していた。処がその六角氏との間で外交方針で対立したため、長政は六角氏の娘との婚姻を破棄、越前朝倉との政治関係構築に力を入れていった。ここに「姉川の戦い」元亀元年(1570)の遠因がある。信長は朝倉氏が支配していた越前敦賀の湊を狙っていた。摂津の堺のように海外貿易により巨万の富をもたらす敦賀に目をつけていたのである。そこで信長は朝倉義景に上洛を促した。義景はこれを無視した。行けば敦賀は取られてしまう事ははっきり予想できた。市の夫長政は、父久政の関係もあって朝倉家を支援する立場をとった。信長が手筒山、金崎城を攻略したことを受け、信長軍の背後から迫った。浅井朝倉両家の同盟には、「不戦の理」があることを長政は信長に伝えてあった。しかし、信長は一方的の朝倉領に侵攻、この為長政は信長との同盟を破棄、金ヶ崎で挟撃した。長政は朝倉家との関係を重視すると同時に、信長のこうした性格には結果的に馴染めなかったのである。ここに面白いエピソードがある。真偽のほどは明らかではないが、一説には市から両端を結ばれた小豆の袋が届けられた事から、信長は長政の裏切りを察知、秀吉を殿軍に備え琵琶湖西岸の朽木峠を越え京に逃げ帰った。世にいう「金ヶ崎崩れ」である。家康はこの時何も知らされずに取り残された。連合軍の方の将への対応がこれであった。信長は「然れども浅井は歴然縁者たる上 あまつさえ江北一円に仰せ付けるるの間 不足これあるべからずの条 虚説たるべき」と、妹婿の離反を俄かに信ずる事が出来なかったとされる。しかし、長政にしてみれば、朝倉家との関係は父の代からであり、信長との友好関係より10年も長かったのである。また、今日の研究では、そもそも市の小豆袋、そのものの話はなかったとされている。戦国時代、大名同士で戦いになった場合、国境の街道は閉鎖されるため、書欄や物品の交換、交流は停止される。従ってこの話は江戸中期以降、戦国時代の戦いというものを経験していない人々が、中国古典にヒントを得て儒教の考えに基づいた、勝手に作り上げた物語であるというのが一般的である。

 元亀元年(1570)6月21日「姉川の戦い」これを機に浅井朝倉は信玄や義昭と共に信長包囲網を構築した。姉川は現在の滋賀県長浜市野付町、野付橋の際に古戦場跡の石碑が建つ。JR長浜駅から湖国バスで15分ばかりの処にある。姉川は今は幅2~3mほどの農業用水であるが、その頃は河川敷が広く、旧暦6月は真夏であった。この姉川を挟んで織田、德川連合軍と浅井、朝倉連合軍が相方1万3千人の拮抗した勢力で対峙した。相方互角の戦いが続いたが、朝倉軍に対峙した德川軍酒井忠勝に加え、榊原康政が敵の右翼に回って朝倉軍を攻め立てたため、朝倉軍は撤退した。戦闘状態に入っている軍隊は、利き手が右の場合右からの攻撃には接近戦では弱いとされる。昼八つ半(pm3:00)法螺貝と共に浅井朝倉軍は撤退した。一旦退いた浅井朝倉は湖西に侵攻、叡山延暦寺を味方につけ、信長との戦いを有利に進めていたが、12月になって信長働きかけによる朝廷や室町幕府の仲介によって和睦が成立、浅井朝倉は延暦寺を撤退、戦局は信長有利に進んだ。元亀4年=天正元年(1573)4月信玄死去、同年7月室町幕府滅亡、8月、信長は越前一乗谷に朝倉義景を追い込め自決させた。次いで久政、長政父子を小谷城に追いやり自決させ、小谷城は落城、浅井家は滅亡した。長政29歳、市は24歳の時であった。これらの過程において、市は長政と離婚しょうとは思わなかった。この考えは戦国時代においてはむしろ自然であった。離婚を想定するのは現代の考え方に基づいているし、家同士のトラブルと夫婦は別であるという考えかたも共通している。江戸時代の儒教の考え方とは次元が異なっている。では、何故市は兄信長に袋を送ったのか?育てて貰った兄への温情か、義理か、市はそうではなかった。家同士が断絶しても内向きの外交ルート(夫婦間のやり取り)は残り機能する。このルートを潰さない限り、織田家との修復、和睦は可能であると市は考えていた。兄信長を生かす事によって、夫長政との関係は修復できる。私が夫を説得すればいいと考えた。婚姻関係をもってすれば、何らかの打開に結びつくと市は考えていたのである。 次回は②お市の方 舞台は越前北の庄となります。





















































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