姫たちの落城「意は男子に劣らず」お市の方②
小谷城落城の後、お市の方と浅井三姉妹は信長の叔父(信秀の末弟)信次の庇護をうけていたが、信次が戦いで死んでしまったため、その後は信長の庇護を受けていた。そこへ天正10年(1582)6月、晴天の霹靂「本能寺の変」が起きる。信長は明智光秀の謀反により、高転びに転び本能寺で横死、下天は夢かの49歳の人生を閉じた。(HP家康ピンチ 本能寺の変参照)信長の百日忌を主催しているのは、秀吉の養子となっていた信長の五男秀勝と市の二人。法要の主催は後継者か、それが存在しない場合は正妻が行なうのが通例であるが、いずれも存在しない場合は嫡出の娘などがある。信玄の十三回忌は嫡女見性院が仕切っている。信長の場合嫡出子の信雄や五徳は行っておらず、この法要においては秀吉と織田家筆頭家老柴田勝家相方の主催によるものとされており、市の立場は信長養女、織田家嫡流に位置していたとみられている。続く6月27日の「清須会議」により、信長嫡流信忠の嫡男三法師を推した秀吉が、政治的攻略によって俄かに台頭、これに勝家は反発した。この会議により市は勝家と結婚することが決められた。これには猿(秀吉)嫌いであった市の意向が多分に含まれていた。翌年の天正11年4月、「賤ヶ嶽に戦い」は小競り合いから当初勝家に与していた前田利家の戦線離脱もあり、勝家は越前北の庄(福井)へ敗走、そのわずか2日後に城は秀吉軍に包囲されてしまった。
天守閣に引き揚げた勝家は、家臣たちを呼び酒宴を開いた。結婚してからまだ10ヶ月程であったが、夫婦の絆は硬かった。勝家は市へ城から落ち延びる様に伝えたが、市は「たとひ女人たりとはいえども 意(こころ)は男子に劣るべからず。諸共に自害して同じ蓮台に相対せん事 希うところなり」と決意を伝えた。婚家と生死を共にするのは、結婚した女性の責任であると考えていた市は、一緒に自害すると主張した。小谷城落城の際に城から退去したことについて「悔しい」思いを持っていた市は、二度目の落城に遭遇した。市は結婚した以上は婚家と生死を共にすべきであり、それ故婚家が滅亡し実家に戻る事は自分の心(意思)とは反するものと考えていた。この考えは幕末、薩摩藩から輿入れした天璋院篤姫と朝廷から降嫁した皇女和宮2人の考え方と似ている。薩長軍の総攻撃に際し、十三代家定の御台所になった篤姫は、かっての部下西郷隆盛に、十四代家茂の御台所になった和宮はかっての許婚有栖川宮熾仁親王に書欄を送り、江戸の町と市民の安全、婚家徳川の存続、江戸城無血開城を訴えた。「渓心院文」によると、市いわく「小谷城が落城の折にも逃げ延びた事は悔しい思いをしたのに、どうして今回また逃げ延びなければならないのか。私は夫と一緒に自害します」として、3人の娘が無事敵の陣中を通行出来るか心配して、2人の家臣と女中たちをつけ、最前線の三の丸まで見送りに出た。4月24日、寅の一点(am3:00)総攻撃が開始された。こうして浅井三姉妹は小谷城で父親を失い、北の庄で母親を失い、両親を死に追いやった「成り上がり者」秀吉の庇護の下で生きていかなければならなかった。茶々15歳、初13歳、江11歳、それは充分に淋しい厳しい事が予想された。三姉妹にとっては2度目の落城であった。
市は北の庄落城の際、幼い三姉妹を秀吉に預けるため、初めて城の三の丸まで出てきて見送った。娘たちの行く末を案じた母親の愛情である。その時市を垣間見た者が、「お年頃よりはお若く22、3歳にもみえ候」と報告したことから、後世、市が三国一の美女であったという根拠になったとされる。髪のつや、肌のはり、挙動などから10歳ほど若く見られたが、実年齢は当時37歳であった。市が浅井長政と結婚したのは永禄10年(1567)21歳の時であった。戦国時代の姫たちは平均結婚年齢は18~19歳、第一子は20~21歳という例が多い。市の場合、長女茶々の出産は永禄12年の23歳の時、次女初は元亀2年(1571)三女江は天正元年(1573)と2歳ちがいで出産していることから、市は再婚かとみられる事もある。尚、市が自刃した理由として、①市本人のの意向 ②秀吉への敵対心の他に、兄信長の仕打ちが慣例化したことにもよる。当時敗者側の武士の妻子が処刑されることが多くなってきていた。例を取ると天正6年(1578)10月荒木村重が主人信長に背いた。当初村重は摂津国伊丹城に籠ったが翌7年妻子を残して城から逃亡、城は落ちた。その折投降した村重や家臣の妻子たち36名、女房たち122名を信長は処刑した。この事件以降それまで助命されてきた女性たちも覚悟を決めなければならなかった。市はそのことも覚悟に入れていたかもしれない。市の辞世の句「さらぬだに うちぬる程も夏の夜の 夢路をさそう ほととぎすかな」北の庄は信長弟織田有楽に預けられ、これから7年後秀吉は天下統一した。
市の7回忌法要は父長政の17回忌法要と共に、天正17年(1589)高野山小坂坊(現持明院)で、長女茶々によって執り行われた。そこに祀られた2人の肖像画は茶々の記憶に基づくものだという。茶々はこの時、天下人となっていた秀吉の嫡男鶴松を出産、お袋さまの立場にあった。次いで文禄2年(1593)次男拾(秀頼)を出産、京都での菩提寺として洛陽大仏方広寺の塔中である養源院を父の21周忌にあたって建立、寺号は父長政の法名からとった。養源院は豊臣家滅亡ののち、元和5年(1619)落雷にあって焼失、このため同7年に秀忠の正妻になった三女江によって再建され、以後長政、市の供養は江によって担われていく。また、養源院には柴田勝家公略譜の石碑が建ち、越前北の庄で市が亡くなったのは天正11蕟未年四月二十四日寿三十七歳 如意輪山自性院に葬られると記される。市の没年齢についての所伝としてはこれが唯一残されたのものとなっている。(次号は市の長女茶々の登場です)
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