姫たちの落城 2「桐一葉落ちる」浅井茶々①
世には悪妻と云われる女性がいるという。唐の則天武后、ロシアのエスチェリーナ女帝など、夫の王朝を奪ったり、夫を思うままに操り権力を握った女性たちがそう呼ばれる。日本で強いて言えば、浅井茶々(淀君)がそういう評判をとっている。秀吉が一代で築き上げた天下を、叔父信長に似た傲慢さに加え、自己のエゴや度量の狭さ、叔父に似なかった虚栄や先の読めない政治姿勢によって、息子の秀頼共に夫の政権を潰してしまった。秀吉が死んでから「大坂夏の陣」で豊臣家が滅亡するまでの18年間、茶々はこれからの豊臣家はどうあるべきか、息子秀頼がどう生くべきかを考慮することなく、ただ、過去の豊臣家の栄光に踊らされ、己れの自尊、自己満足のままに生きていった。仕える周りの人たちが淀の傀儡であったため、それは尚更であった。ただ、浅井長政と信長の妹、市を父母にもったこと、母、市が三国一の美女と呼ばれていたこと、茶々本人が豊臣家の後継者の男子を産み、お袋さまと崇められていたことなどが、茶々の生きる拠りどころであった。関西人の「太閤びいき」が、余計茶々を慢心させていった。こうした反面、幼くして両親を亡くした茶々は下の妹たちには優しい姉であった。末娘江が先夫羽柴秀勝との間に産んだ完子を、自分の猶子とした淀は、九条家に輿入れするときは、豊臣家の娘として都人が驚くような豪華な道具を揃えたり、御殿まで建てた。また、江と秀忠都の子、家光が産まれたときには非常に喜び、千姫が我が息子秀頼に輿入れする時には非常に喜んだという。こうした頃が浅井三姉妹にとって一番幸せな時代であった。
浅井長政とお市の方の長女、浅井茶々は永禄10年(1567)現滋賀県東浅井郡湖北町小谷城で産まれた。この城は叔父信長によって落とされた。その叔父も天正10年(1582)の「本能寺の変」光秀によってであっけなく転んだ。それにより三姉妹の母、市は勝家と再婚するが、勝家も越前北の庄で秀吉により敗死、母、市も後を追った。この時茶々15歳であった。三姉妹にとって2度目の落城である。その後、市が嫌っていた秀吉の庇護の下で生活していた三姉妹は、先ず末娘の江が佐治一成に嫁がされ、次女初も京極高次に嫁がされた。長女茶々は父母の仇秀吉からの申し入れに対し、妹たちが決まってからと条件をつけていたが、これらを踏まえ天正16年(1588)52歳の秀吉の側室となることを承諾、茶々22歳、翌年淀城で鶴松を懐妊した。茶々が多くの側室たちがいたのに関わらず更にそのメンバーに加えられたのには、秀吉の本来の習性も勿論あるが、茶々の血筋、織田家と浅井家との血筋を継がせる事により、豊臣政権の合理性を高めようとしたものと考えられる。松の丸殿(京極高次姉)、加賀殿(前田利家娘)などでは他の大名たちと同格であるため、母方の実家としては豊臣家を押し上げることにはならなかったからだとされる。
一般的に浅井茶々は「淀殿、淀君」の名で呼ばれることが多いが、それらの名称は江戸時代前期に生まれた呼称である。茶々が山城国淀城にいた頃は「淀の女房」「淀の上様」であった。その後大坂城二の丸に住んでいたころは「二の丸様」、伏見城西の丸にいた頃は「西の丸様」と呼ばれていた。従って茶々を淀君と呼ぶのは適切ではなく、浅井茶々と呼ぶのが適切であるとされる。茶々は一般的には秀吉の側室と認識されているが、茶々は秀吉複数いた妻の1人という立場であり、「御上様」「北の方」「北政所」「御台様」「簾中」などと呼ばれることがあった。秀吉生前における豊臣家の正妻の地位にあったのは木下寧々であるが、2人の間には子どもはいなかった。茶々は天正17年(1589)茶々は長男鶴松を産んだが、同19年に早逝、文禄2年(1593)次男拾(秀頼)を産み、豊臣家嫡男と位置付けられた。その為茶々は「お袋様」と称され、豊臣家では北政所寧々に次ぐ地位に位置することになる。秀吉には子供が恵まれなかったとされているが、長浜城時代、側室南殿の間に石松丸という男の子が産まれたが早逝しているため、全く秀吉の世継ぎの可能性がなかったとは言い切れなかっのが、豊臣家の世継ぎ事情であった。
慶長3年(1598)秀吉が62歳で死去すると、秀頼6歳が家督をついだが、政務を代行したのは「五大老・五奉行」であった。同年9月、夫の死去に伴い、寧々は大坂城西の丸を退去した。秀吉が死んだあと、大坂城は近江閥で固められ、糟糠の妻寧々は、大坂城は最早夫秀吉の城ではないと見切ったのである。これより「家」の妻は寧々から茶々に引き継がれた。天正5年(1600)「関ケ原の戦い」の戦い後、五大老・五奉行制は解体、五大老の筆頭であった家康1人の政務に移行、家康は大坂城を出て伏見城に移ってここを本拠とした。これに伴い政権と豊臣家のの家政は分離され、豊臣家は摂津、河内、和泉65万石の事実上の一大名の位置に置かれた。関ケ原の戦いにより相対的に家康の地位は上がったが、まだ秀頼母子の地位は確たるものがあった。人々、特に上方の人間たちは家康が将軍になったのは、暫定的なことであり、家康が老齢で死去すれば、次の政権は誰しも秀頼の番であると思っていた。ましてや、関ケ原の戦いにおいて家康に与したのは秀吉恩顧の大名たちであり、彼らは三成憎しでただ時流に乗って家康についただけであり、本格的に徳川政権を支持した訳ではなかった。従って家康が死去すれば江戸幕府は幕を閉じるという、砂上の楼閣のような危うい政権運営を徳川幕府は切りまわしていた。次号は 浅井茶々➁「大坂城冬・夏の陣、落城」です。
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