姫たちの落城「桐一葉落ちる」浅井茶々➁
慶長10年(1605)4月26日、家康は将軍になって2年もたたないうちに、3男秀忠にその職を譲った。この事は将軍職は徳川家が世襲するものであり、豊臣家には天下人の座を譲らないということを世間に宣言したものであった。当然、茶々(淀君)は反発した。茶々が家康の将軍職は一代限りと考えていたのは、秀吉の遺言が念頭にあったからである。茶々に限らず大坂方は、秀頼が成人した暁には、秀頼に政権が戻されるものと信じて疑わなかった。家康はそんなに甘くはなかった。多くの犠牲と危険を払って掴んだこの栄光と地位を、むざむざ先代の息子母子に渡す訳がない。しかも相手は国家的政治的展望を持たない、脆弱な組織である。また、戦国の世が再来する事は目に見えていた。それまで協調路線を取っていた茶々が、態度を硬化させてきたのはこの時からである。家康は秀吉の遺言に沿って豊臣政権の政務を務め、茶々母子を立ててきたが、一方で、秀吉が禁じた大名同士の婚姻を勝手に進め、自己の陣営の拡大に努めていた。表向きは秀吉の意向に沿い、裏では来るべき時に備え、着々と勢力固めを怠らなかった。役者が茶々母子より数段上であった。5月上旬、家康は北政所(高台院)を通じて秀頼の上洛を求めた。秀頼の上洛即ち徳川への臣従を意味した。茶々はこの時も約束が違うと怒った。権勢欲が強く感情的であると評される茶々であるが、これらの背景には、家康のこうした一連の仕打ちがあった。徳川政権の安定化、豊臣政権の衰退を願う家康は、茶々を悪人に仕立てる必要があった。茶々は家康の創られたシナリオに完全に踊らされていた。この頃茶々は「気うつ」の病に患っており、漢方薬で治療していた。秀忠2代目将軍就任から、ちょうど10年後を迎える豊臣家滅亡の幕開けであった。
慶長16年(1611)3月6日、家康再度上洛、この時70歳、秀頼は19歳になっていた。本来ならば家康は国事行為の座を秀頼に返していなければならなかった時期である。「御所柿はひとり熟して落ちにけり 木の下にいて拾ふ秀頼」という落首も詠まれていた。この時も秀頼を二条城に招いた。未だに子離れしていない茶々はまたも反対した。わが子を大坂城から出すのが怖かったのである。秀頼は過保護のためか喘息ぎみの体質であったためとされる。しかし、当の本人秀頼は3月27日これに応じ、大坂城を出て京都に向かった。3月28日、家康の子、尾張徳川義直、紀州徳川頼宜の出迎えを受けて、二条城で家康と対面した。家康は年齢的に焦りを自分自身で感じていた。対面した秀頼は祖父浅井長政譲りの風貌と体格を備え、家康は目を見張った。秀頼本人の人間的資質はわからないが、わが子秀忠は秀頼よりも見劣りすると内心感じた。大坂びいきの人々の前に秀頼が現れれば、徳川の政権は翳りをみせ危うくなる。しかも自分はかなり年である。豊臣政権の早期の抹殺を考えた。秀頼はそうした家康の腹は知らぬふりをして、その日の内に父秀吉の妻、秀頼にとっては義理の母にあたる高台院とも会って無事大坂城に戻った。因みに慶長16年という年は、列強の戦国大名たちの死去が多く続いた年であった。1月島津義久(79)4月浅野長政(65)6月には加藤清正(50)が死去、ひとつの時代の流れが変った年でもあった。
家康は更に豊臣政権に圧迫をかけてきた。豊臣家の財力を衰えさせるため、寺社の建立や修復を勧めてきた。茶々の迷信深さを利用しようとした。そのひとつが京都方広寺大仏殿再建である。大仏殿開眼の運びとなるのは慶長19年(1614)。この直前になって鐘に彫られた銘文に家康はクレームをつけてきた。「国家安康」「君臣豊楽」どちらも家康の死を望み、豊臣家の繁栄を望んでいる言葉であり、到底受け入れることは出来ないと突っぱねてきた。明らかに理論の理の字も見いだせない邪論であった。家康はそれでも少し気後れしたのか、京五山の僧たちにその見解を正した。宗教関係者は概して時の権力者に迎合して来た。この時もそうであった。揃って家康の意見に同調した。これで正当性を得た家康は、片桐且元を駿府に呼び寄せ、弁明を求めた。しかし、呼び寄せた且元には会わず、後から来た常高院(浅井初)らと面談、何らかの心配はないと伝えた。家康得意の二枚腰、二枚舌である。またもや幼い大坂方は老獪家康に弄ばれた。これにより且元は大坂城から退いた。結果、大坂と徳川方との公式外交ルートは切れた。豊臣家がこれより存続するには、徳川に臣下をとるか、茶々が江戸へ出向くかであったが、更年期障害をむかえた茶々にとっては、何れも問題外の事項であった。こうして東西は手切れとなる。
慶長19年10月、大坂方が牢人や米など城に集め戦闘の準備をしているとして、家康は諸大名に大坂城総攻撃を命令した。11月10日、家康は二条城を経由して秀忠は伏見城から淀を経由して大坂城にせまった。11月16日、家康が命令した砲弾は大坂城天守閣を直撃、茶々の侍女たちが即死、2度の落城を体験した茶々は即和議に応じた。これを踏まえた「大坂冬の陣」の交渉においても大坂方の常高院たちは、徳川方阿茶局の交渉に上手くまとめられ、堀を瞬く間に埋め立てられ、城攻めを得意とした秀吉が造りあげた名城大坂城は裸の城となってしまった。続く慶長20年=元和元年4月「大坂夏の陣」、徳川方15万5千に対する豊臣方5万5千。真田丸を築き上げ德川軍を翻弄させた幸村が主張した、秀頼の再三の出馬に関しても、茶々は息子のリスクを優先して応じなかった。戦いというものがなんであるかが分かっていない、女主人が采配を採った結果がこれであった。5月7日寄せ集めの舞台は各所で惨敗、翌5月8日徳川方は本丸城内に突入。この戦いで豊臣方と激しい戦い繰り返したのは、浅井江の次女子々姫の婿、金沢城主前田利常と三女勝姫の婿、福井城主松平忠直であった。姉茶々に対し、秀忠に嫁いだ妹江は複雑な思いであった。茶々と秀頼は城内の山里曲輪に身を隠した。大野治長は千姫を脱出させ、二人の助命を嘆願させようと画策した。一方、初も和議の交渉を試みたが、その回答は山里曲輪への一斉射撃であった。大坂城は炎に包まれて、桐一葉は落ちた。茶々にとっては3度目の落城であり、49歳の波乱の人生は幕を閉じた。
次回は次女浅井初と大坂城物語です。「江戸純情派 チーム江戸」しのつか でした。
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