姫たちの落城「桐一葉落ちる」浅井初

 浅井初は長政と市の次女、三姉妹の中では1番穏やかな結婚生活を送った。母市が結婚し三姉妹と生活した北近江小谷城は、叔父信長によって落城、初は母や姉、妹と城を脱出した。天正10年(1582)「本能寺の変」により、強力な後ろ盾であった叔父信長はあっけなく死んでしまった。それにより母は信長筆頭家老柴田勝家と再婚するが、またしても嫁つぎ先の城・北の庄は落城、母は「意、男子に劣らず」と義理の父と運命を共にしてしまった。今度の庇護される先は、母市が嫌っていた秀吉であった。秀吉が我々三姉妹を、自分の政治的利益のために利用し、且つまた、欲望の道具と捉えていたことは、誰の目にも明らかであった。この時初は10代半ばの思春期であった。18歳になると秀吉の命令で、近江の名門、京極家に嫁がされた。浅井家は京極家の家宰(家老的立場)を務めていたため、京極家は亡き父長政の主筋の家であった。夫となる京極高次は、父長政の姉(京極マリア)の息子、つまり夫とはいとこ同士の結婚であった。京極マリアは長政の父久松が、京極高吉に嫁がせた娘である。天正9年(1581)安土城下で夫の高吉と洗礼を受けた。マリアは永禄6年嫡男高次を、次いで高知の2人の息子と、のちに秀吉の側室となる龍子含め3人の娘たちを産んだ。「本能寺の変」で、京極高吉と高次は光秀側についたため、高吉は討ち死に、高次はその後勝家に味方、反主流の道を歩いていたため、隠遁生活を余儀なくされていたが、妹龍子(松の丸殿)の働きかけによって近江八幡山城2万6千石を与えられて大名に復活、浅井初と結婚することになった。世の人々は高次のことを「ホタル大名」と揶揄した。

 「文禄の役」「慶長の役」と2度にわたり7年間続けられた秀吉の老害からくる「唐入り」により、諸大名たちは疲弊、豊臣政権はその求心力を失った。慶長3年(1598)「醍醐の花見」を死の手向けとして、秀吉は浪華の露と消えた。行年62歳、その時世継ぎ秀頼はわずかまだ6歳であった。豊臣政権崩壊の第1歩である。その結果秀吉生前からくすぶっていた、豊臣政権内での内部分裂は本格化し、家康の揺さぶりも加わって「関ケ原の戦い」と進んでいった。「関ケ原の戦い」は、五大老筆頭の家康が、三成憎しの加藤清正、福島正則などを上手く煽動して、三成に与した西軍との戦いであり、茶々や秀頼にとってはカヤの外の戦いであった。従って、家康にとって折角引き込んだ豊臣恩顧の諸大名たちを、引き止めておくことが望ましい事であった。これを踏まえ「小山評定」における黒田長政の工作に加え、家康自身も陣中からせっせと、諸大名たちに書欄を送り、東軍参陣を要請した。文禄4年(1559)高次は近江国大津6万石の城主となる。「関ケ原の戦い」の当初においては、高次は今までの秀吉との関係から西軍に属していた。大谷吉継と共に北陸に向かっていたが、東軍が岐阜城を落したことにより、一行は美濃に向かった。しかし、途中から高次は自領大津城に戻り、東軍に与することを決した。家康の到来を待ち籠城を始めたのである。大津は京に近いだけでなく、美濃と関西を結ぶ中山の要衝であった。大坂城に拠点を置く西軍にとって、高次の裏切り行為は大問題であり、すぐさま1万5千の大軍を大津城に向かわせ、9月7日には包囲、13日より攻撃を開始した。因みに大津城は「本能寺の変」で破れた、光秀の居城であった坂本城が廃城になったため、その部材を使って築かれた城である。琵琶湖の南端、現在の大津港桟橋付近にあった。昭和45年頃までは城の石垣が波に洗われていたのを見ることが出来たが、湖岸の埋め立てによりその姿は消え、今では城跡の碑が残っているだけである。

 慶長5年(1600)9月15日開戦の「関ケ原の戦い」の前哨戦として、家康に味方することを決した京極高次は、妻初や姉龍子と共に大津城に籠った。大津城は9月7日から14日まで、立花宗茂など率いる1万5千人の大軍を相手に奮戦、籠城して戦ったが、15日早朝耐えきれずに開城した。あと半日の踏ん張りが悔やまれる攻防戦であった。大坂城にいた茶々は、妹初や同じ立場である龍子の身が案じられ、早期の講和を働きかけていた。夫高次と籠城していた初にとって、小谷城、北の庄に次ぐ3度目の落城であった。「関ケ原の戦い」の戦いは、大津城に取り掛かかった西軍1万5千が戦場に間に合わず、また、一方東軍正規軍秀忠も信州上田城の真田父子に翻弄され、この日の戦いには間に合わなかったという双方誤算のままで始まった戦いである。結局、秀忠が上田城にこだわり中山道を彷徨、西軍が大津城へのこだわり双方戦いを不利にした。昼過ぎになり家康の小早川秀秋への工作が功を奏し、家康からの脅しの鉄砲により動揺した秀秋は裏切り、西軍は崩れ始め、これを契機に敗退していった。終わって見れば、京極高次は妻の妹江の夫、秀忠の遅参を穴埋めする結果となり、この功で若狭小浜8万5千石の大名に封じられた。妹江の働きかけもあったとされている。

 慶長19年(1614)「大坂冬の陣」においては、夫高次の死去により常高院名乗る初は、大坂方の使者として、大坂城姉茶々と江戸城妹江との和平交渉を務めていたが、東軍の阿茶局に作戦負け、大坂城は裸の城にされてしまった。続く、母市に通じる姉茶々の意を決した「大坂夏の陣」においても常高院などの数々の交渉・折衝は、老獪家康によりなし崩しに崩され、和平工作は悉く失敗、姉茶々と甥秀頼は大坂城山里曲輪の炎に包まれて自決した。初にとっては大坂城は4度目の落城であった。今度は姉と甥が城と運命を共にしてしまった。戦後、初は大坂城から逃れた女性たちのケアに努めた。甥秀頼と側室の間の女の子・泰阿姫の助命を家康に嘆願、千姫の養女とさせた。千姫は奈阿姫を鎌倉にある縁切寺東慶寺に入れ、20世代の院主につかせ、その生涯を見守りサポートした。寛永10(1633)三人姉妹の次女浅井初は64歳でその生涯を閉じた。三人姉妹では1番の長寿であった。初の臨終の際には、それまで仕えていた侍女7人が尼になって、彼女の菩提を弔ったという。母市に似てほっそりとした切れ長の目をした美人だったという。

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