姫たちの落城3「浅井江御台所となる」

 浅井江① 江(小督・小江与)という名称は、近江の「江」、江戸の「江」に因んで3度目夫、徳川秀忠によって つけられたものだとされている。 浅井三姉妹の末娘江が北近江小谷城(滋賀県長浜市)で誕生したのは、天正元年(1573)8月。この年の歴史は武田信玄が死、信長が将軍義昭を追放した結果、室町幕府が滅亡。父浅井長政が叔父信長によって滅ぼされ、小谷(おだに)城が落城した激動の年であった。産まれたばかりの江は、母の胸に抱かれて城から落ち延びた。母娘4人は伊賀上野(三重県津市)城主、母の兄織田信包のもとに預けられていたが、天正10年(1582)6月2日「本能寺の変」で叔父信長は明智光秀によって、人生50年、下天の夢を閉じた。俄かに台頭してきた秀吉の思惑による「清須会議」により、猿(秀吉)嫌いな母市は、織田家筆頭家老柴田勝家と再婚した。幼い三姉妹は母と一緒に、北国越前北の庄(福井県福井市)に向かう事になる。しかし、その半年後の天正11年「賤ヶ岳の戦い(琵琶湖北部)」に破れた勝家は、北の庄に籠城し自害、母市も「意は男子に劣らず」と共に自害してしまった。三姉妹は全く身寄りのない孤児になってしまった。この時茶々16歳、初14歳、江12歳であったとされる。三姉妹は父母や義理の父の仇、母市が嫌っていた秀吉の庇護の下で生活を送った。預かった秀吉は主筋の三姉妹を、如何に有効に自己の利益につながるように差配することを、虎視眈々と考えていた。

 秀吉は先ず末娘江に1度目の結婚(婚約)を伝えてきた。この時江は12歳、相手は秀吉が自軍に引き入れようとしていた、知多半島大野城主(愛知県常滑市)佐治一成(16歳)である。全くの戦略結婚であった。義理の父は佐治信方、母は信長の妹お犬の方、つまり2人は従妹同士であったが、この結婚生活は1年にも満たなかった。夫一成が翌天正12年に起きた「小牧長久手の戦い」で、敵方家康側についたため、嫁いだ江は秀吉によって呼び戻され離縁させられた。今でいうバツイチとなってしまったのである。江2度目の結婚は14歳、相手はは秀吉の甥羽柴秀勝(亀山城主)である。秀勝は秀吉の姉と三好吉房の2番目の男子で、その兄は秀吉によって都合のいいように使われた関白秀次である。天正19年(1591)江が秀勝との間に最初の子を身ごもった頃、秀吉老害の産物、朝鮮出兵が始まった。いわゆる「唐入り」である。この征伐は2度にわたり、1度目の「文禄の役」の際、遠征軍の将として朝鮮に渡っていた秀勝は、巨済島で24歳の若さで病死してしまった。江は20歳の若さでバツ2となってしまう。秀勝との間に産まれた女の子完子(さだこ)は、江が秀忠のもとに嫁ぐことになったため、姉茶々に預けられて養女のように育てられていった。完子が13歳になった慶長9年(1604)千姫が秀頼に嫁いだ翌年、茶々の尽力により五摂家のひとつ九条忠栄19歳のもとへ嫁いでいった。茶々は豊臣家のプライドをもって豪華な行列に仕立て、完子を嫁にだした。慶長13年忠永関白就任、江は関白の義理の母となった。やがて完子の子孫は貞明皇后を介して、現在の皇室とつながっていくことになる。父長政、母市、叔父信長の願いは江によって叶えられていくことになった。文禄2年(1593)8月3日、秀吉57歳、茶々25歳の間に次男拾(ひろい)=秀頼誕生、秀吉はこの秀頼を確実に世継ぎにさせるべく、甥秀次の抹殺を謀り、高野山に追放し自刃させた。江は亡き夫の兄一族の滅亡をみて、姉茶々が君臨する豊臣政権の瓦解を感じた。慶長2年(1597)「慶長の役」秀吉は、諸将へ朝鮮の再征を命じた。その以前には政治的相談役でもあった千利休を自害に追い込むなど、こうした秀吉の認知症からくる、一連の政治判断のミス=老害によって豊臣政権は衰退、家臣団は分裂していった。

 江3度目の正直の結婚相手は、家康3男秀忠である。江は23歳の大年増のバツ2、夫は17歳初婚の秀忠、典型的な年上女房であった。おまけに江はかなりのやきもちやきであった。今回の秀吉の政治的目論見は、将来わが子秀頼の後ろ盾として、徳川家の力をかなり期待した戦略結婚であった。この結婚にはいろいろな経緯があった。秀吉は永続的豊臣政権起立のため、実力者家康を何とか傘下に収めようと、妹旭姫を築山殿亡き後、家康と結婚させ婚姻関係を保っていたが、その旭姫が死去してしまった。秀吉はこの関係を取り戻そうと、天正18年(1590)秀忠がまだ元服前の12歳の時、秀吉養女の子姫と結婚させようとした。これにより豊臣・徳川両家の婚姻関係は復活するかに見えたが、しかし、肝心の子姫が翌年死去してしまう。秀吉はなんとしても豊臣政権安泰のため、徳川家との婚姻関係を持続しておきたかった。そこで白羽の矢が立ったのが、2度目の夫秀勝と死別、バツ2であり大年増の年上の女房「江」であった。慶長3年(1598)に家康に「秀頼のこと頼みまいらす」と死去する秀吉が、遺言として江の長女千姫を、息子秀頼の正妻としたことも、こうした政策・思惑の一環として考えられている。文禄4年(1595)9月17日、京都伏見城で江は「秀吉の養女」として、徳川秀忠に嫁いだ。この事は織豊系の西国大名たちにとって深い意味をもった。江を中心とした女の系図においては、浅井江は信長、秀吉と秀忠を結びつけ、織田・豊臣系の大名たちと徳川系の大名たち同士を、結びつける役割を担う意味があった。ひいては皇室、公家とを結び付ける役目があり、江はそれらの結節点にいた。逆に秀忠にとっては年上の浅井江がいなくなると、全ての関係を失い孤立しかねる立場に置かれていた。しかし、浅井江と結婚することにより、織田家・浅井家の血筋を引いた世継ぎを設け、徳川の幕藩体制の基礎を築いていくことにつながっていった。江の結婚は1度目は離別、2度目は死別、3度目も秀吉の野望による戦略結婚であったが、江はこの結婚を踏み台として夫秀忠を管理、やがて天下人の妻、母、関白の義母と上っていく。さて、次回浅井江②は、いよいよ姫たちの落城「お市の方と浅井三姉妹」の最終章です、お楽しみに。

 

 

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