姫たちの落城3「浅井江御台所となる」➁

 慶長5年(1600)「関ケ原の戦い」同19年「大坂冬の陣」元和元年(1615)「大坂夏の陣」で長女茶々は息子秀頼と共に大坂城山里曲輪で自刃、豊臣家は滅亡した。この戦いを見定めて緊張の糸が切れたのか、徳川の地盤が安定したのを確認して安心したのか、大御所家康は元和2年正月、駿河国田中で鷹狩りを楽しんだその夜発病した。昼間食べた鯛の天麩羅が原因とされるが、胃がんの末期に当たっていたとされ、4月17日、75歳の生涯を閉じた。この時2代秀忠は41歳、江47歳、夫秀忠の実質的な天下となり、江は徳川幕府初代の御台所となった。家康にも築山殿、旭日姫と正室を迎えていたが、家康が征夷大将軍に就任したときは、彼女たちは死去していたため、御台所とは呼ばれない。因みに「御台所」とは、宮中の女房たちの詰所であった清涼殿の一室を御台盤所というが、これが転じて大将や将軍たちの妻の敬称となったのが御台所である。一方、秀吉の正室寧々は「北政所」と呼ばれ、摂政、関白の妻の敬称である。古代中国においては「天子は南面し北は服従の方向」であった。御台所になった江は、父家康の死を契機に自分たちの天下になったが、これからは完全に自立しなければ、姉の政権のように、天下は誰かにとって代わられると覚悟していた。

 文禄4年(1595)江はまたしても秀吉の政略結婚により、7歳年下の徳川秀忠を3度目の夫として迎えた。織豊時代の結婚観は、宣教師ルイス・フロイスによると、ヨーロッパにおいては妻と離別することは最大の不名誉であるが、日本においては夫の意のままにいつでも妻と離別するが、妻はその事によって、名誉も失われないし、また結婚もできるとしている。妻たちは離別によって生涯を終わることなく、むしろ自分の運命、立場を積極的に受け入れながら、それを踏み台として大きく高みに跳んでいこうとしてたのが、戦国時代の女性たちであった。江もその1人であった。戦略結婚に関わらず、江は年下の秀忠とは仲が良く、二男五女を設け、徳川15代将軍の中で、唯一我が子を征夷大将軍に就かせた御台所である。他の御台所たちは、3代家光以降、朝廷からの子女が迎えられたため、虚弱体質的であった公家の姫たちには、本来の目的を叶えるのは不可能であった。為に3代家光以降の将軍は正室からではなく、側室からの男子となっている。初代御台所江は体質的にも恵まれ、7人の子を生んだとされているが、7人全員を江が生んだとするには、子供たちの生年月日を検証していくと、医学的に無理な点が生じてくるという学説がある。その説によれば、江が産んだとされる子供たちは長女千姫、4女初姫、次男忠長の3人、次女子々姫、3女勝姫、5女和子、それに3代将軍となる家光は庶出子、つまり秀忠が側室に産ませた子供たちということになる。一般的に年上の女房であった江はヤキモチ焼きで、夫に側室を持たせなかったと言われているが、この学説を踏まえると、徳川政権存続のための大前提、世継ぎ=子孫の誕生のための措置を、江は認めていた事になる。

 江の系図から順を追っていくと、「長女千姫」は慶長2年(1597)秀吉が諸将に朝鮮再征を命じた年に誕生した。すぐさま秀吉によって姉茶々の子秀頼と婚約させられた。自分がそうされられたように、娘千も産まれてすぐ、秀吉の政略の道具にされていた。秀吉の自分が亡き後の将来(家康の動き)を危惧した行動であった。慶長8年千姫は7歳で大坂城へ輿入れした。江はこの時31歳、四女初姫の出産を控えながらも、身重な体で伏見城まで千姫と共に上京、千に母親の愛情を注いだ。この機会を利用して、江は大坂城に向かい姉茶々(35歳)母子と対面した。この対面が姉妹にとって最後の別れとなった。婚儀は7月28日、大坂城で行われた。この時伏見城で生まれたのが、江の「四女初姫」である。この初姫は次姉初と夫京極高次の間に子どもが恵まれなかったため、産まれてすぐ姉の元に引き取られ養女となった。のち、高次と側室の間に産まれた忠高の正室となっているが、28歳の若さで亡くなる。「次女子々姫」は慶長4年に誕生、この姫は祖父家康によって3歳で江戸を離れ、加賀前田利常に嫁いでいった。数え15歳で女の子を出産、1度も江戸に帰ることもなく、金沢で元和8年(1622)子々は24歳で亡くなってしまう。墓所は加賀国金沢天徳院。3歳で嫁に出してから1度も再会することもなかった、娘の早すぎる旅立ちであった。

 「三女勝姫」は家康次男結城秀康の嫡男松平忠直の正室となった。「大坂夏の陣」では娘婿(千姫夫秀頼)同士が争う戦いとなり、江としては落ち着かない立場であった。忠直は幸村の軍勢を打ち破るなど多大な戦功をあげたが、その論功賞は茶器ひとつであった。さらに、官位も御三家となった尾張義直など、自分の弟たちより下とあって、次第に不満を募らせていった。やがて、病気を理由に江戸参勤交代もしなくなってしまった。この原因は父家康にあった。封建制度を維持する序列を無視して、自分の気に入りの側室が産んだ子、身分の高い側室の子を大事にして、それ以外の側室が産んだ子供たちを疎外したことによる。一方で3代家光就任については、年功序列を前面に出した自己の裁定に、自己満足して悦にいった。一貫性のない家康やその後の将軍たちの政治戦略の独善的、政務怠慢にも関わらず、徳川政権が260余年も継続したのは、その幕閣たちのブレーンのお陰に他ならない。「五女和(まさ)子」は後水尾天皇に入内し中宮となり、その後東福門院和子を名乗る。和子の娘興子(おきこ)内親王は奈良時代以来の女帝109代明正天皇として即位、江は国母の曽母の立場となった。また、前夫羽柴秀勝との娘完子が嫁いだ九条忠永は慶長13年(1608)に関白に就任したため、関白の義理の母にもなっていた。やがて、江は天下人の妻にして、次なる天下人の生母となっていく。こうして、江本人も、またその娘たちも徳川政権の基盤作りに利用され、大いに貢献していった。

 江戸260余年を通して、医学的見地からは問題があるとしながらも、御台所を母として生まれてきた将軍は家光ただ一人である。御台所鷹司孝子は京より輿入れ、母と同様姉さん女房であった。孝子は最初から家光とはウマがあわず、江戸城中の丸に屋敷を構え、別居生活を送ったため「中の丸殿」と呼ばれた。一時は有力な将軍候補と目された次男、忠長は信長娘と結婚、寛永8年(1631)夫忠長が兄家光によって自害させられると、妻は竹橋御門に住み、尼となって「北の丸殿」と呼ばれ、78歳で死去した。相克の兄弟を産んだとされる母親江が亡くなるのは、寛永3年(1626)9月15日、54歳でその波瀾の生涯を閉じた。その以前から江の容態は悪化していたが、生憎と夫秀忠と2人の息子たちは朝廷行事のため上洛していた。このため姉の初、娘の千姫、勝姫、初姫を除いて臨終には間に合わなかった。京にいたた東福門院和子、九条完子は母の臨終には臨めなかった。京に滞在していた秀忠と家光は立場上すぐ対応が取れず、その後江の死が知らされた。忠長は第一報で江戸に向かったが、途中で母の死を聞かされた。忠長第一の擁護者がいなくなった。10月18日 芝増上寺で葬儀、法名は「崇源院殿昌譽和興仁清大禪定尼」11月28日従一位を追贈され「達子(さとこ・みちこ)」が用いられた。次姉初は、江の死から7年後の寛永10年、64歳で死去した。ここにたび重なる落城で何度も涙を流しあった、母と姉妹たちの波乱の人生は終わった。そこには男たちに利用されるだけの女たちの存在であったように思われがちであるが、彼女たちはそこに存在価値を見出し、その場所で自己を自立させ飛躍していった。そこには「意は男子に劣らず」の気概があった。そこには利用した筈の男たちが従属していた。表向きは権威者のなりをしていた。女たちが産んだ子は母親の愛情をうけ薫陶され、父親を越え天下を目指していった。

 港区麻布台1丁目辺りに「我善坊坂」という面白い名がついた坂がある。江戸切絵図では、但馬出石藩仙石家と陸奥八戸藩南部家の上屋敷の間にあった。この地名は2代秀忠夫人、浅井江(崇源院)の葬儀の際、この辺りに我善堂というお寺を建てたことに由来する。我善堂は座禅する坊さんの座禅坊の字を当てたと言われている。「我善坊町」という町名は明治5年から昭和48年まで存在した。坂は中腹から北西に曲がり、崖に沿って上り坂になり六本木1丁目に向かっていた。両脇は樹木やツタが生い茂り、江戸情緒漫喫の坂であったという(完)

  次回 姫たちの落城「意は男子に劣らず」第2章は 大坂城物語・千姫と天秀尼 です。お楽しみに! また、チーム江戸HP5月号は、夏も近づく八十八夜「日本茶」のお話です。

 


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