シリーズ姫たちの落城「意は男子に劣らず」第2章細川ガラシャ
前編 「本能寺の変」と明智光秀 ①
天文2年(1533)一介の油売りから武士となり「美濃のマムシ」と恐れられた斎藤道三は、守護を務めていた土岐氏を追放、美濃一国を平定、金華山山頂にあった稲葉山城へ入城、城を大改築、城下町の整備を行った。油売りの行商人であった道三が、下剋上により美濃一国を盗んだ「国盗り物語」である。天文17年(1548)道三は尾張の織田信秀と和睦、道三の娘濃姫(帰蝶)は、信秀の嫡子信長に嫁いだ。弘治2年(1556)「長良川の戦い」で、道三は息子の義龍と激突、力尽きて討ち死にした。娘婿の信長も救援に向かったが、あえなく撤退をした。道三は北条早雲と並ぶ、下剋上大名の典型的な武将であった。光秀が足利義昭を紹介役をかって働くうちに、織田家の家臣として引き立てられていったのは、この頃である。信長との関係は、道三の正室・小見の方が、光秀の父・明智光綱(継)の妹であり、光秀にとっては叔母に当った。道三と小見の方の娘・帰蝶は、政略結婚で信長のもとへ嫁いでいた。こうした経緯から、越前、美濃と主を変えてきた光秀は、次第に信長に仕えるようになった。永禄10年(1567)信長は美濃に侵攻、稲葉山城を攻略してここを居城とした。古代中国の故事にならい、この地から天下統一を目指すという意味を込めて岐阜城と名を改め、城下町に「楽市楽座」などを開設、商業の活性化を目指した。
元亀2年(1571)「比叡山焼き討ち」。大きな勢力を築いていた延暦寺が弱体化されたため、この見返りとして近江国志賀郡が光秀に与えられ、坂本の地を拝領した光秀はここに城を築き始めた。信長が光秀を秀吉より先に国持大名にしたのは、岐阜城にいた信長が京の情勢を光秀に監視させるためであった。京には足利義昭や三好氏、松永氏などが暗躍していた。こうした事柄は信長にとってはこの時期最大の関心事であった。元亀3年正月、光秀は坂本城着工、1年かけずに完成させ、琵琶湖南半分の制海権も傘下に収めた。坂本城は琵琶湖の水運を利用した水城で、城内から船が出入り出来るように設計されていた。この様に水運を利用した城には、長浜城(湖北)、安土城(湖東)大溝城(湖西)などがある。ポルトガルの宣教師ルイス・フロイスの「日本史」によると、坂本城は大天守と小天守のふたつを持ち合わせた、安土城に次ぐ豪壮華麗な城であったという。琵琶湖の畔に城を構えたのは、城内に琵琶湖の水を引き入れるためと、焼き討ちをした延暦寺がまた不穏な動きをしないように監視、また、信長が長年手を焼いてきた琵琶湖の海賊たちの勢力を抑えるためだとしている。当時は近江における水城の魁となった坂本城であったが、天正10年(1582)「本能の変」の折、秀吉側の堀秀政の大軍に囲まれて落城した。築城からわずか10年であった。その後丹羽長秀の手によって再建されたが、京に近い大津に城が築かれることで廃城となった。現在、坂本城は琵琶湖の水位が下がった時に、わずかながら石垣を見ることができる幻の城である。坂本城址は京阪石山坂本線 松の馬場駅下車歩13分。坂本城に拠る前、光秀が城主となったのが、坂本城から西南約4㌔に位置する宇佐山336mに築かれたのが宇佐山城である。この城はもともと森蘭丸の父・可成が元亀元年に築城した山城である。浅井・朝倉の戦いで可成は戦死、代わりに光秀が継いだが、琵琶湖西岸の坂本城の普請により、宇佐山城は僅か1年で廃城となった。宇佐山城址 京阪石山坂本線近津神宮駅下車歩40分。
元亀4年=天正元年(1573)武田信玄が病により亡くなったことにより、信長の運命は好転した。7月、信長は槙島城に拠った足利義昭を信長配下の諸将が攻撃した。義昭はこらえきれずに降伏、城を追放され牢(浪)人となり、ここに尊氏以来15代続いた室町幕府は崩壊した。続いて8月越前の朝倉義景、9月妹市の婿・北近江の浅井長政が滅亡。この年信長は光秀の対抗馬・秀吉に、浅井・朝倉が滅亡した直後、江北地域を「一職進退」の地として与えた。一職進退とは、今までの中世的複雑な支配体系をご破算にして、単一の領主と農民関係を形成する支配体系である。中間搾取にあたる寺社や公家の年貢徴収権を排除、信長及びその家来たち耕作者(百姓)との、一元的な関係の構築を目指した政策である。以後、秀吉は長浜に城を構え、信長政権の大名として成長していく。天正2年(1574)正月、岐阜城に家臣たちが年賀に集め、信長は明智家と細川家が「縁家」となるように命令、明智玉(細川ガラシャ)と細川忠興の縁組みが決定された。また、信長は光秀を西国征伐の最高指揮官とし、丹波の制圧のため、織田信澄や筒井順慶を光秀の組衆とし、特に細川家とはその子供たちを結婚させ、光秀との結束を固めさせた。信長が自分の子女だけでなく、家臣たちにまで姻戚関係を広げて、織田家との結束を固めさせた一環である。
天正4年(1576)信長は近江に敵が殆どいなくなると、居城を岐阜から京に近い近江の安土に移転し城を普請した。安土城は構造的には山城で、山城ならば掘れば石が出てくるし、堀も掘る必要が無かった。信長はこの城を全国平定の拠点と定めるべく、武将たちは山の中腹に、馬廻衆には山下に屋敷を構えさせた。織田家はもともと越前丹生郡織田荘(福井県越前町)の地を苗字とする武士で、斯波氏に仕えていた。守護大名ではなく、守護代でもなく、単に守護代の三奉行の一人であったため、国持大名と異なり、城造りの発想が父祖伝来の地にこだわらず、自由であったことが本拠地の移動を可能にしていた。父信秀は清洲織田家の奉行の時代、木曽川、伊勢湾の湊を抑えて勢力を伸ばし、尾張清洲城から小牧山城、信長の代になって美濃稲葉山城(岐阜城)から東近江安土城にと、徐々に京に近づいていた。 信長の城造りの特徴は、高い石垣に高層の天守閣、瓦葺の屋根であった。安土城は五層六階、地下室も設けられ、最上階は三間四方(≒5,4×5,4m)の部屋で、柱には上り龍、下り龍、天井には天女の図、壁は金箔貼りであった。信長はこうした構えによって自分の力を敵に見せつけた。また、安土城の礎石に使われた蛇石と呼ばれた巨石は、秀吉や丹羽長秀らが1万余の人足を使い、3日3晩かけて引き上げたといわれる。こうしたハードの面だけではなく、天下布武を目指して、朝廷との結び付けを前提として天皇来賓の間を造るなどして、政治の拠点として安土城の天守閣から天下を睨んだ。城址はJR琵琶湖線安土下車、歩20分。
天正5年2~3月、紀伊の根来、雑賀衆攻め、8月、能登の一向一揆の討伐を目的とした、柴田勝家を中心とした北国攻め、更に10月には播磨平定を目指して秀吉を出陣させた。信長は石山本願寺と結んだ毛利攻めを次の目標に定めていった。天正6年10月、配下であった荒木村重が造反、光秀は長女が村重の嫡子村安に嫁いでいた為、説得を試みたが村重は妻子を残して伊丹城から重臣のみと脱出、尼崎花隈城へと逃れた。信長はこれを知ると村重は侫人(心のねじ曲がった者)と激怒、伊丹城に残された光秀の娘を含め、全ての家来たちや婦女子を成敗した。不幸な事件が翌天正7年にも続いた。光秀は丹波篠山・八上城で波多野兄弟と戦っていた。事態の解決策として、光秀は母を八上城へ人質に入れ懐柔策をとり、信長に寛大な措置を望み、兄弟たちを信長と交渉のため安土城に送ったが、信長は3人を磔にした。この措置については、光秀も細川藤孝(幽斎)も憤った。天正10年(1567)「本能寺の変」事件の下地が育まれていった。次回はいよいよ「本能寺の変」の核心に迫ります。
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