「姫たちの落城」 第2章 細川ガラシャ
「本能寺の変」の本質と明智一族滅亡
天正8年(1580)幾たびの戦いを経て、丹波、丹後に加え、播磨、但馬にも平穏が訪れようとしていた。翌9年、信長は京で盛大な馬揃えを挙行、これを仕切ったのは光秀である。天正10年(1582)織田・徳川連合軍は武田勝頼を滅ぼし、長年の懸案事項を取り除いた。同5月、家康は信長の招きに応じて安土城を訪問、5月15、16、17日と光秀のもてなしを受けた。このもてなしが終らぬうちに、光秀は信長から中国征伐の命令を受けた。膠着状態の秀吉軍の応援である。このため、光秀は17日のうちに、安土城から坂本城に帰り、出陣準備に取り掛かった。5月26日、中国地方に出陣のため、丹波亀山城に入る。27日、愛宕山に詣で、2度も3度もおみくじを引いた。愛宕神社には甲冑を身に付け、右手に杖左手に宝玉を載せ、馬にまたがった「勝軍地蔵」が祀られている。愛宕神社は丹波、丹後地方に多くの末社を持ち、光秀はこれまでの戦いの過程の中で、神社の加護を深く感じていた。このため、丹波、丹後を従えた時点で、信長への反逆について、地主神である愛宕神社にその神音を問うたものと思われる。おみくじを引いた結果は、3回目で大吉を引き当てた「三度目の正直説」と、3度とも大凶であったという「二度あることは三度ある」説に分かれている。光秀は心にまだ迷いがあったとみえ、翌28日には百韻連歌を開いた。この時の連歌の発句が「時は今 雨が下知る 五月哉」である。
5月29日、信長が安土から、小姓20~30人を召し連れただけで上洛した。6月1日、光秀は重臣らと談合、天下の主となるべき調議を究め、亀山城を発って壱の坂から山崎へと、軍勢を逆転させ本能寺に向かった。本能寺は戦国時代、法華宗二十一ヶ本山の一つで、当時、京都四条坊門西洞院にあった。本能寺は種子島や屋久島、沖永良部島などを法華宗の伝道所であった為、信長が種子島など南九州を通じて、鉄砲や火薬を入手するには最適の場所であった。2日早朝、光秀は2万余の軍勢を率いて本能寺に押し寄せた。宵のうちに嫡男信忠は、妙覚寺屋形に帰っていた。この時期信長は天下統一を目前にし、秀吉を西国へ、柴田勝家を北陸地方へと出陣させていた、その他の諸将も信長出陣の供の用意として領国へ戻っていた為、京は武将たちの空白、留守状態であった。信長の「無人御在京」状態である。ここを光秀はついた。「惟任(光秀)謀叛」の知らせを聞くと「是非に及ばず」と自ら弓を取って応戦、「女は苦しからず 急ぎ罷り出よ」と命じ、御殿に火をかけ自害した。信長49歳、「下天は夢か」であった。二条御所で最期を迎えた信忠は、若冠26歳であった。「女は苦しからず‥」この信長の言葉は、当時の武士階級においては普遍的な考え方であった。これと対象的であったのは、反逆した荒木村重の子女に対する信長の処罰である。村重はとその重臣たちは、本人及び家来たちの妻子を伊丹城に残したまま逃亡した。この一連の行動に対し、信長は「合戦の責任は武将が取るべき」だとし、村重は侫人であるとして、伊丹城に残された妻子たちを、一蓮托生とみなし皆殺しにした。しかし、信長妹お市の方は、「意は男子に劣らず」として、戦いにおいて負けることは女子の立場であっても悔しい、恥辱であるとして、2度目夫勝家と北ノ庄で自害、浅井三姉妹は戦国の世に投げ出された。
「本能寺の変」の時点、信長配下の武将たちは各地に散らばっていた。安土城には信長の側室や子供たちがいるだけで、留守居役として蒲生賢秀がいたが、光秀の軍勢を迎えて戦う兵力はなかった。「信長死す」の知らせが入ると、信長の家臣団は妻子を連れて思い思いに逃げてしまっていた。賢秀・氏郷父子は「信長公の精魂込めた安土城を焼くのは忍びない」として、翌3日、城と財宝をそのままにして側室や子供たちを、自分の居城である安土城東に位置する日野城に退出させた。氏郷の正室は信長の娘であった。一方、信長を討った光秀は、安土城を接収しようとして大津から瀬田の唐橋に向かったが、既に瀬田城主によって焼き落とされていた。光秀は仕方なく橋の復旧を命じ、自分の居城である坂本城へ戻った。唐橋の復旧には3日間を要した。直ぐに安土城に入れなかったのは、その後の展開には大きなマイナスであった。これと併行して光秀は京極高次らに佐和山城、長浜城を攻めさせ、近江一国を手に入れる傍ら、細川藤孝(幽斎)・忠興父子及び筒井順慶に再三使いを送り、上洛して味方に加わるように促したが、忠興には光秀三女玉が嫁し、筒井家には息子定次養子をだし、その養子は信長の娘を正室にしていたが、両家は光秀に与しなかった。また、一方では事件が発生すると、光秀の治世に親しんだ丹後の国人衆は、光秀に味方して細川氏の支配から脱却しようと考えた。国人衆のひとり一色義定に、藤孝の長女(忠興の姉)・伊奈が正室として嫁していた。「本能寺の変」後の9月、細川父子は義定を謀殺、弓木城を奪い取ってしまった。正室伊奈はこの後、弟忠興と対面したとき、脇差を抜いて斬りかかったと云われている。伊奈は一色義定の正室として「義」を貫こうとしたのである。丹後の国にも「意は男子に劣らない」姫がいた。
6月7日、光秀は安土城に勅使を迎え饗応、京都の経営を任された。9日、御礼に光秀が上洛して朝廷に銀子500枚を献上した。一方、備中高松で戦っていた秀吉はこの間信長の死を隠して和議を進め、城を開城させ、城主を切腹させ、6日には備中高松を出て、備前沼城まで引き返している。6月13日、光秀は1万余の秀吉軍と山崎で戦い大敗、坂本城に戻る途中、山城国小栗栖(京都市伏見区)辺りで落武者狩りに合い落命した。安土城に残ったいた光秀娘婿の明智秀満に敗報が届いたは6月14日、秀満は安土城を捨て坂本城に戻った。途中大津で秀吉側の堀秀政と対戦、負け込み馬に乗り「湖水渡り」(川角太閤記)して坂本城に向かい家族と共に自刃した。15日、主がいなくなった安土城は炎上した。放火だとされているが、誰が火をつけたかは定かではない。光秀正室煕子は天正7年、44歳で病死しているため、明智家を継ぐ者は、細川忠興の妻となった明智玉(ガラシャ)を残し誰もいなくなった。こうして事件は一応の決着をみた。
光秀の「本能寺の変」における二つの誤算は、味方につくと思われていた、細川けと筒井家が与しなかったこと、こうして光秀が体制を決められぬ間に、秀吉が思いの外早く、京に戻ってきたことによるとされる。イエズス会宣教師フロイスによれば「本能寺の変」は、光秀がもともと抱いていた野望(天下取り)を、信長の仕打ちがそれを後押しして起こったものだという。信長は自分の部下たちは、絶対に自分を裏切らないものと考えていた。己が部下を虐げ、部下の妻子を殺しても、部下たちは己についてくるものと信じていた。こうした相手の心理が読めない、読もうともしない独善的な唯我独尊的考え方が、信長の最大の欠点であった。他にも信長と光秀の四国調落の意見の違い、全国平定を目指す方法論の違いなど様々挙げられているが、現在でもはっきりと解明されていない。2人についての論評は、信長は天下人を頂点とする専制支配体制と、中世武士の意識改革を目指した革新的考えであったというが、旧来の権利関係を否定せず、そのまま温存していたという点から見れば革新者とは云えない。裏を返せば合戦で増えた土地を配るだけで、土地領有秩序の改変という面倒な構造改革ををしなくとも、その必要はなかったともいえる。従って信長は中世的秩序を温存した政治家であったともいえる。一方で光秀は朝廷や足利幕府に連なる人々とつながり、表向きは謹厳実直に旧体制を維持しようとする保守的な人間であるように振る舞っていたが、本質的には己の能力を誇る野心家で、刑を科するには残酷で独裁的でもあったという。これらの論評は「本能寺の変」後の評論であり、この事件の先入観が入っている事は否めない。
光秀の人生の中で分かっているのは、信長の家臣として世に出「本能寺の変」を起すまでの15年足らずである。出自や若い頃の前生は謎のままである。それは謀叛人というレッテルで、多くの資料が焼却されたためだとされる。
次回「姫たちの落城」は、明智玉から細川ガラシャへ、一人の女性の転生を伺います。
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