「吉原細見」番外編 ⑦京島原と吉野太夫
「京島原」は室町時代足利義満が、東洞院通七条下ルに許可した傾城町が始まりとされ、また、京島原が我が国の公娼町の始まりとされている。天正17年(1589)になって、秀吉に認めらた二条万里小路柳町が開設された。しかし、この地は禁裏に近かったため13年後の慶長7年(1602)家康の時代になって、六条柳町付近の五条魚棚室町西洞院に移され「六条三筋通」と呼ばれるようになり、吉野太夫などの名妓を輩出した。更に寛永18年(1641)西新屋敷・朱雀野に移転させられ、この地を「島原」と呼んだ。この地を島原と呼ぶのは、ちょうどこの時期が「島原の乱」直後であったためと、移転時の騒動があたかも「島原の乱」の如しと云われた事によるとされる。また別説では、当時この地は原野であり、傾城町が島のように造られた事にもよると云う。寛永18年以来、島原は公許の花街(歌舞音曲を伴う遊宴の町)として発展してきたが、単にこれだけにとどまらず、和歌や俳諧などの文芸活動が盛んになり、江戸時代中期には「島原俳壇」が形成されるほどの活況を呈し、京文化の中心的役割を果たしていった。この点では閉鎖的な江戸吉原と異なり、老若男女を問わず出入りが自由で解放的な町であった所以であった。京島原、大坂新町の遊女たちは太夫、天神、鹿子位、端女郎に分けられていた。太夫とは元々が正五位の異称であり、室町時代足利将軍は、一芸に秀でた人物にこの称号を許した。以来、遊女たちの最高位を表す称号となっていった。大坂新町の遊郭が大分限者(資産家)や大店の主人を上客としていたのに対し、京島原は公家や貴族を上客としていた。太夫は万芸に通じ、茶道、華道、香合に始まり、琴や笙(しょう)などの音曲を奏で、詩歌、俳諧を詠み、源氏物語、古今和歌集、漢文などを読みこなした。島原の太夫は朝廷から「正五位」の官位が贈られ、太夫は廓が生んだ最高の芸術品であった。
「吉野太夫」は慶長11年(1606)洛陽大仏の近くで生まれ、名を松田徳子、「色道大鏡」では、父は俵藤太秀郷の末裔であったと云う。慶長17年(1612)その父が病死、これにより六条三筋町の傾城屋(遊女屋)林与兵衛(又一郎)に預けられた。徳子は林屋で禿名を「林弥(りんや)」と称され、初代吉野太夫とされる肥前太夫についた。楼主与兵衛は林弥に高い教養を備えさせるため、あらゆる学問を教え込んだ。林弥は生まれ持った知恵と才気でそれらを習得していった。林弥は元和5年(1619)14歳で吉野太夫の名跡を継ぐことを許された。林弥の吉野太夫昇格に力を尽くしたのは、禿時代彼女を可愛いがってくれた、出雲松江藩主堀尾忠晴であった。忠晴はお披露目料と化粧料として合わせて、千両の支度金を与兵衛に与えた。「性軽爽而(せいけいそうにして)知恵甚深(ちえはなはだふかく)霊艶而化心(れいえんにしてこころをおかす)活然恣気(かつぜんきをほしいままにす)だったと云う。寛永8年(1631)3月13日、噴火した信濃国浅間山の火山灰が江戸や駿河に降った。この年の8月1日、吉野太夫は年期が明け、26歳で灰屋紹益に身請けされた。身請け金は大判1枚であった。楼主与兵衛曰く「吉野太夫には既に大金を儲けさせて貰っているから、それ以上は受け取れない」と云うことであった。吉野太夫も洛中洛外で随一であったが、太夫を抱えた与兵衛の気っぷも、負けてはいず随一であった。
染料の世界において、明治時代になってヨーロッパからの化学染料が伝わる以前は、染料の素材は全て天然であった。その媒染剤(触媒)として、植物を燃やした多量の灰を使用した。藍染には「ワラ灰」紫染には「椿灰」が用いられた。紹益の稼業はその灰を商う「灰屋」、祖先は本阿弥光悦につながっていた。父親に勘当された二人は北野天満宮に近い晒屋(ろうおく)を借りて住んでいた。収入がないので昨日までとは打って変わった貧乏生活が始まった。それでも吉野太夫・灰屋徳子は文句も言わず、衣装や笄(こうがい)などを売って、日常の生活を支えた。ある日義理の父親紹由が、息子夫婦の家とも知らずこの家の前を通りかかった。粗末な家の割には風情があることに興味を抱いた紹由は、声をかけられるままに茶を一服飲み、帰ってからその家の住民を調べさせた。なんと勘当し息子夫婦の住まいであり、もてなしてくれた女性は吉野太夫であった。父親は合点した。息子が家を捨ててまで一緒になったのはこれだ。徳子の持って生まれた人間的資質だ、素養だ。紹益は勘当を許され上立売の屋敷に妻とともに戻った。戻って12年、夫婦は仲良く暮らしていたが、寛永20年(1643)8月25日、美人薄命、徳子は38歳の若さで死んでしまった。悲嘆にくれた灰屋紹益は、白磁の骨壺から妻の骨を掴みだし、ポリポリと噛み始めたという。それを見ていた周りの人たちは「それほどまでに」と嘆き悲しんだ。「都をば 花なき里となりにけり 吉野を死出の 山にうつして」紹益。次回は大坂新町・夕霧太夫です。<チーム江戸>
0コメント