「吉原細見」⑥ 吉原三景容と稲本屋お稲
吉原に遊ぶお客の心得は「洒落を表に 実(誠実)を裏とし 風流をもって遊ぶを 真の通人」としている。さて、そのお客も遊女も楽しめる新吉原の三大イベントは、①春の夜桜 ②玉菊灯籠 ③俄狂言 である。それに紋日として、八朔の雪がある。紋日は新吉原の、現代で言えば祝日や節句のような日である。揚げ代は普段の2倍、客がつかないと遊女たちの負担とさせ、妓楼の利益を確保、こうして吉原の片方にだけ都合のいい紋日は増えていった。しかし、こうした妓楼の思惑は長くは続かなかった。余りにも多くなった紋日に、天明年間(1781~88)になるとそれを嫌う客が増え、客足が遠のいていった。寛政年間(1789~1800)になってやっとそれに気づいて、紋日の大幅な削減を図ったたが、1度離れた客足は、岡場所などに取られ戻って来なかった。
<春の夜桜>江戸の行楽ガイドブックである「江戸名所花暦」春の部では、現在でも桜の名所である、上野、浅草、墨堤、御殿山、飛鳥山などと共に、新吉原仲の町の桜を紹介している。「毎年3月朔日(現在の3月下旬頃)より、常に往来の地である大門のうちの仲通りに、その年毎の寒暖により花遅ければ朔日より、また末に植え込むこともありけるが、桜の樹数千本を植うる。葉桜になりても人なほ群集す」としているが、数千本というのはやや誇張で、せいぜい200本前後であろうとみられている。このイベントの発端は寛保元年(1741)の春、茶屋の軒下に鉢植えの桜を飾ったのが始まりとされている。それが評判となり、翌年から桜の樹を植えて鑑賞するのが恒例となった。延享2年(1745)になると、樹の下に山吹を植え込み、青竹の垣根で囲いトリコロールの色彩で配色、夜は雪洞の灯がともされ夜桜も楽しめるようになった。この時期は廓内も解放され、普段吉原に用のない一般の女性や子供たち、地方の観光客、参勤交代で参府した在の武士たちなどが、大勢で押しかけ新吉原の桜を楽しんだ。花魁道中も見られる仲通りは、廓を南北に貫く長さ135間≒250mのメインストリート、開花時期に合わせて山から根のついた桜の樹を移植、散りかけるとそれを抜いて取り替えるという贅沢さであった。このイベントにかかる総費用は150両、現在のお金にして1両8万から15万円として、1200から2250万円余を也を妓楼、見番、引出茶屋などが負担した。しかし、3月朔日は現在の国民祭日や節句にあたる、新吉原の「紋日」であったため、お客様の揚げ代は通常の倍、この日客が1人もつかなかった遊女の場合は、本人の負担となった。早い話が妓楼の主たちが企画した費用を、客とそこに働く遊女たちに丸投げして、リスクを負わず儲けだけを懐に入れるという、一種の詐欺商法であった。
<玉菊灯籠>享保年間(1716~35)吉原角町の仲万字屋の遊女玉菊は、多芸で何でもこなしたが、なかでも拳相撲と河東節が得意であった。気っぷも良かったから玉菊は廓内でも人気があった。しかし、大酒飲みであったため、享保11年(1726)3月、25歳の若さで死んでしまった。現在の病名でいえば急性肝炎か心筋梗塞であろうか。新吉原では玉菊の死を悲しみ、その年の初盆には廓中の茶屋が申し合わせ、玉菊のために提灯を飾ることにした。花街のため、赤と黒のだんだら模様の提灯を軒ごとにずらっと飾った。この幻想的な風景が人気をよび客を呼んだ。更に馴染みの客が提灯の中に回り灯籠を仕掛けて、模様が移り変わる「からくり灯籠」を茶屋に贈った。これがまた更に吉原に客を呼んだ。これが例となって毎年盆になると、玉菊を偲び追善供養の灯籠を飾るのが、新吉原の恒例行事となっていった。 <俄狂言>新吉原で働く裏方たちが、主体となって歌舞伎や昔話の主人公に扮して、踊ったり演奏、寸劇などをしながら練り歩いた。見物客は昼間解放された仲の町の往来にやってきた、一般の女性や子供たちであった。新吉原は江戸の立派な観光地であった。
<八朔の雪>「灯籠が 消えると廓 雪が降り」盆の行事である玉菊灯籠がすんで灯が消えると、変わって八朔の白無垢で雪景色になると、この川柳は詠んでいる。元禄期(1688~1703)新吉原江戸町1丁目巴屋に太夫髙橋がいた。毎年8月朔日は「八朔」紋日であった。高橋は風邪をひいて寝ていたが、この日は特別な日だしで、寒いので白無垢の小袖を着て揚屋に駆けつけた。それを見た周りの人たちが「誠に梨花のふくめる風情して こと清らかなれば」と廓中の評判となった。以来、新吉原では八朔の日には白無垢を着るようになったという。この話には異説もあり、寛永年間(1661~72)大坂新町にいた夕霧太夫は、朋輩たちは袷を着て出ていたが、8月朔日だというのにひどく寒い日であったため、綿入れの小袖を着て出ることにした。その粋な姿が新町の評判を集めて恒例行事になったという。八朔の行事には相当の費用がかかるため、女郎たちはお金の工面のため、スポンサー探しに苦労した。金回りのいい馴染みの客がいればいいが、そうとばかりとは限らなかった。「白無垢で とかく寒気が しいすなり」となる。借金をして白無垢を何とか工面をした遊女たちは、行事が済むとその白無垢を質屋に持ち込み、借りた金を何とか減らそうとした。「八月の 二日質屋に 雪が降り」8月2日は、何かにつけて負担を強いられた遊女たちが、肩の荷を降ろして少しほっとする日であった。
<稲本屋小稲>幕末から維新にかけ活躍した小稲は、幕府軍の伊庭八郎と相思相愛の仲であった。伊庭は江戸無血開城を不満として、上野の山で戦いに破れ、二本松から転戦した会津戦争にも破れた。その結果、榎本武揚や土方歳三らと最後の天地、蝦夷函館を目指す事になったが、先立つ資金の調達に苦労した。仕方なく伊庭は馴染みの小稲に50両の無心を頼んだ。小稲は、函館で死ぬかもしれない伊庭に快く50両なる大金を、何も言わず涙をにじませ渡した。「達者でね、無事に帰ってきてね」と心の中で叫んだ。あんたが死ねば、私がその分奉公を長く勤めればいいだけの話だ。女であってもこの腹の括り方は、小稲の自分の身を売っても心は清らかであると云う侠気の表れであった。次回「吉原細見」は、江戸吉原を離れ、京島原、大坂新町、長崎円山へと草鞋を履きます。乞うご期待。<チーム江戸>
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