「吉原細見」⑤玉の輿・榊原高尾
川向こう深川小名木川北岸に猿江という町がある。この町にある浄土宗鎮西派重願寺の門前で、お玉は父親六兵衛と一緒に花を売っていた。お玉は誰が見てもウットリするほどの良い女であった。この評判を聞いた江戸雀たちは、お玉の顔を近くに見ようと、お玉と言葉を交わしたいために花を買い、境内の墓にそれを供えたという。お陰様でこの寺はいつも花が溢れていたという。そんな時父六兵衛が長患いに倒れた。この時代、医者の治療代も薬代もべらぼうに高かった。お玉は父親の治療費を稼ぐために、仕方なく新吉原京橋1丁目にある三浦屋に身を売って遊女になった。美形のお玉はみるみるうちに超売れっ子名妓になり、三浦屋の名跡6代(11代目)高尾太夫を継いだ。今回の主人公「榊原高尾」である。
当時、新吉原で派手な遊びをしていた、播州播磨国姫路藩15万石藩主榊原政岑(まさみね)が、この評判を聞き高尾太夫に触手を動かし、1800両で身請けをした。現在のお金に換算すると約5億から6億円となる。その上身請け当日は、新吉原の遊女2000人ほどを借り切って宴会が行われた。また、参勤交代の都度、有馬温泉に立ち寄り湯女たちと遊興三昧を繰り返していた。時代は倹約を旨とする8代吉宗の治政下である。政岑は将軍吉宗の倹約路線の抵触、怒りを買った。同じ様に怒りを買ったのが尾張藩第7代徳川宗春である。宗春は独自の路線、「緩和経済思想」を根本政策としていたが、榊原政岑は単なる浪費家であった。こうした彼の風聞が幕府中枢まで届き、榊原家江戸留守居役村上何某は江戸城に呼ばれ、老中から詰問を受けることになった。当初、留守居役はのらりくらりと弁明していたが、ある日頓智をきかせ「高尾太夫なる者は殿の乳母の娘であり、つまり殿とその者は乳兄弟であると分かった故に身請けを致した」と強弁した。勿論真っ赤な嘘である。この弁明のお陰で榊原家は改易をまぬかれたものの、姫路15万石から越後高田15万石に転封された。表向きは禄高が同じであるために、単なる移封と思われがちであるが、姫路藩は実録30万石余、越後高田藩は実録13万石であったため、明らかな減封、実質的な左遷であった。それでも改易をまぬかれたのは、江戸留守居役の弁明もしかりであるが、御先祖榊原康政の功績によるものが大であった。康政は本多忠勝と同じく徳川四天王の1人である。この康政のち老中となるが、加増の打診を受けて「老臣権を争うは亡国の兆し也」と断った。無私無欲の人間であった。また、家康から水戸に加増転封を打診された際には、「某には功績がない」と断った。家康は「それでは榊原に借りがある」と、神誓証文を康政に渡した。江戸留守居役の弁明にこの証文がモノをいったとされる。政岑は越後高田に国替えの後の2年後の寛保3年(1743)、31歳で放蕩、暴飲がたたり亡くなった。身請けされたお玉は越後高田までついていき、政岑の死後、上野池之端の下屋敷(現在は旧岩崎邸庭園)で連昌院と号して余生を送り、天明9年(1789)84歳の高齢を全うした。まさしく玉の輿にのった傾城の美女であった。
越後高田藩の藩庁は現在の新潟県上越市、榊原七代の支配を経て維新を迎えた。戊辰戦争では当初態度を曖昧にしていたが、最終的には薩長に与し、長岡藩会津藩討伐の先鋒を命じられ、奥羽各地を転戦した。戊辰戦争後、降伏した会津藩士を預かり面倒をみた。歳月が流れ亡くなった彼らは、上越市金谷山、通称「会津墓地」に埋葬され、今でも地元の人々によって冥福を祈られ、護持されている。次回「吉原細見」⑥は、新吉原の紋日である「玉菊灯籠」「八朔の雪」などに因む遊女たちを紹介していきます。 <チーム江戸>
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