紫色の研究 ②江戸紫(今紫)
「紫の色こき時はめもはるに 野なる草木ぞ わかれざりける 武蔵野の心なるべし」と、「伊勢物語」によって、紫草は武蔵野のシンボルとなった。この史実に基づいて江戸こそが紫の本場であるとして、武蔵野特産の紫草から取った染料で、青味を帯びた新しい紫色を生み出し、「江戸紫」と名付けた。別名「今紫」、当時流行っていた「古代紫」に対抗したものである。逆な例えで述べると、江戸時代流行った青味を帯びた鮮やかな紫が江戸紫と呼ばれたのに対し、紫根染の赤味を帯びた紫を古代紫と呼んだ。「京紫」と同一とする説もあるが、一般的には京紫はもう少し鮮やかな色だと云う。武蔵野に紫草が自生していたのは、平安時代から知られていたが、江戸の地で江戸紫の染織の技が行われるようになるのは、江戸時代以降となる。紫草の根は染料と共に、薬草としても多く用いられ、肌を美しくする作用や、華岡青洲が発見した紫雲(麻酔剤)、花川戸の病鉢巻は気の荒い性分を鎮める作用があるという。江戸雀たちは自分たちの身と言動に照らし合わせ、助六の鉢巻に賛同し誇りを感じた。江戸中期の旗本伊勢貞丈もその著書「貞丈雑記」で、当初は京紫は青味の色、江戸紫を赤味の色と紹介していたが、後年の注釈では「京紫は赤味かち、江戸紫は青味かち」と書き足しており、江戸紫が青味の強いいろへと変化したことを示している。この事は江戸自前の色、江戸民族の色とも云える「藍色」の青が、江戸紫に影響を与え、江戸っ子好みの冴えた色合いに江戸紫が変化していった可能性もある。また、幕末期、喜多(田)川守貞が見聞した風俗や事柄などを、江戸と大坂を対比して絵入りで解説した書を「守貞漫稿」というが、それによると「今世は京紫を賞せずに江戸紫を賞す(中略)呉今云江戸紫青勝也、京紫は赤勝にて」とし、「濃紫」は黒に近く、「京紫」は赤が勝った葡萄色、「江戸紫」は青味が強い紫色だと言う。また、太田蜀山人も江戸流行り物のなかに江戸紫をあげ、当時青染は江戸が勝れ、紅染は京が優れていた。「江戸紫」に「京鹿の子」は江戸と京都の染色の代表であり、江戸紫は江戸雀たちの上方の紫色に対する対抗心の現われであり、誇りでもあった。
<江戸紫(今紫)>は、桔梗の花の色に似た青味を帯びた紫色をし、蘇峰を鉄触媒で染め上げ染色名は「江戸染」、俗称は「青紫」「花紫」。享保14年(1729)8代吉宗は「延喜式」縫殿寮に記載されている染色法を復元しようと企画、江戸城内吹上苑に染殿を設けた。幕府呉服商人後藤縫之殿助が染め出し、その染色試作の標本図鑑を「式内染鑑」というが、その刊行がきっかけとなり、江戸市内では江戸紫の染織が盛んとなり、江戸紫は江戸名物となっていった。しかし、吹上苑での技法は延期式の技法とは異なるとされている。何と言っても江戸紫を江戸に決定づけたのは、歌舞伎十八番「助六縁江戸櫻」寛延3年(1749)3月中村座で7代目市川團十郎が上演、手には蛇の目傘を掲げ、黒羽二重の小袖に紅絹(もみ)の裏、桐の下駄を履き、江戸紫の鉢巻を伊達に右に結んだ助六は、花道で観客の喝采を浴びた。助六が締めた青味の紫が江戸紫であると定着していった。「紫と 男は江戸に 限るなり」と川柳に詠まれるように、東男と江戸紫は、江戸雀たちに云わせると「てやんでぇべらぼうめ 箱根の山からこっちは男はこちとらに決まっているわさ」と、先ずは自分たちを褒め上げ、この青っぽい紫を好み自慢していた。
<古代紫(京紫>は、奈良、平安時代には紫根で染められ、椿の生木などを焼いた灰の上澄液(灰汁あく)=触媒で発色を促していた。布地は染料の液体に入っている時は赤味、アルカリ性である灰汁の中に入れると青味と変化してくる。古代紫と江戸紫の比較は、技術的には染織の作業を、染料の液で終えるか触媒液で終えるかの違いだけである。古代紫と云う色名は東北地方の「南部紫(盛岡産)」「鹿角紫(花輪産)」が著名であるが、古代紫は京紫に近い色である。平安中期一条天皇によって朝廷の衣装が黒に統一され、古代紫は一時途絶えた。江戸時代に入ると平安当時愛されていたというイメージで生まれた、派手めの紫を「合紫」、濃いめの紫を「古代紫」と呼んだ。現代風に言えば、古代紫は古代ぽい紫と言う事になる。朝顔、葡萄色、茄子紺などの色相で、日本の夏は紫色で染まる。
<茄子紺>は紫味のある紺色で、この色名は江戸になってから使われ始めた。<紫紺色>は紺色かかった濃い紫色で、現代では甲子園の優勝旗として馴染みが深い。野菜の茄子はインド原産、胡瓜、トマトなどと夏の代表的野菜で、肝臓の働きを良くし、夏の暑さからくる体調不良を整える効果がある。茄子と云う言葉は「成す」に通じ、何事も成就するという語呂合わせから、吉祥文様として親しまれてきた。「一富士二鷹三茄子び」と初夢の望みから、「親の意見と茄子びの花は 千に一つの無駄はなし」と、格調のある言葉に使われている。尚「秋茄子は嫁に食わすな」という諺の真意は、茄子の旬は秋、秋になって昼夜の温度差が大きくなり、果肉がしまって皮が厚くなりより旨くなるために、姑は嫁に食べさせたくないという意地悪説と、反対に茄子は体を冷やし、秋茄子は種が少ないから子宝に恵まれなくなると心配している愛情説とがある。皆さんはどう思われるであろうか。
<似(にせ)紫>鎌倉時代以降、一般庶民にも徐々に色彩の使用が解放されるようになるが、いつの時代も紫根染は高価なものであった、そうした次第で、江戸時代の染色技法を記した「手鑑横様節用」には江戸時代に入り、藍で下染めをして茜や蘇峰を重ねたり、蘇峰を鉄で酸化、発色させ紫色に表すことが行われ、一般に流行するようになったという。これらを紫根を使う「本紫」に対し似紫と呼んだ。<本紫>寿司屋で紫といえば醤油、江戸中期、野田や銚子の地回り品が愛用され、江戸のファーストフードである、寿司、蕎麦、天麩羅、鰻などによくあった。何故醤油を紫と呼ぶようになった所以は、醤油と色合いが似ているからもあるが、当時の醤油の貴重さと本紫の染料の貴重さが、共通していたことにもあるという。<二藍(ふたあい)>2種類の藍の染料を掛け合わせて出す紫系の色を二藍と呼ぶ。「紫苑色」「薄色」「棟(おうち)色」などがこれにあたる。藍で下染めした上に、紅花を染め重ねた鈍い青味のある紫である。紅花が日本に渡来した時、呉の国から来た藍ということで「呉藍」と呼ばれ、藍を二つ重ねるためこの名称になった。また、紅花は古くは紅藍、この紅藍と藍で染める事からも二藍と云われた。染める時は先ず藍を染めてから紅花の染液に染める。紅花は木灰でアルカリ性になっている液体の中に入れると、色素を放出しまうためである。
<藤色、藤紫>淡い青味のある紫色である。大化の改新の功により中臣鎌足が藤原の姓を賜り、藤色は政権の中枢に座った。植物の藤は日本には茎が右巻きの「野田藤」と左巻の「山藤」とがある。我が国に絹や木綿が伝わる以前は、楮(コウゾ)や麻などといった共に庶民の衣料として使われてきた。<ラベンダー色>北海道富良野を代表する紫色である。ラベンダーはシソ科の常緑小低木で、香りが高く、夏になると可愛らしい紫色の花を咲かせるが、湿度の高い東京では中々毎年上手い具合には咲いてくれない。<パンジー色>紫、白、黄色い花弁の三色スミレの紫色から名付けられた色名である。フランスではパンジーの花びらが「考える人」のように傾いている様子が、思考、思想の仏語「パンセ」から、そう呼ばれたといわれている。我が国では蝶に見立てられ「陽蝶花」「胡蝶菫」とも呼ばれている。<バイオレット色>菫色、香菫(ニオイスミレ)色。人の手に摘まれる事から「ツミレ」「スミレ」となったという。また、大工が使う「墨入(墨壷)」に、花の形が似ているからとも云われる。菫色は紫根で何度も染色するのが良いとされている。この時期、地方の小高い山あいを歩いていると、小さな山菫がしおらしく出迎えてくれる。
「山路きて 何やらゆかし すみれ草」 芭蕉 <チーム江戸>
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