<江戸色彩の研究>第4章紫色の研究 ①帝王紫

 日本初夏は紫色に染まる。春の花、桜は「三日見ぬ間の桜かな」の例え通り、あっという間に散り、空には鯉のぼりが泳ぎ、卯の花香る初夏を迎える。江戸の時代でいうならば「目には青葉 山ホトトギス 初鰹」の季節となる。

 BC3600年前、古代中国周と同じ時期に、西のエーゲ海のギリシャ、エジプトから東のインダス川辺りまでペルシャ帝国が建設された。その領土の中であった東地中海沿岸に、現在のイスラエル、レバノンに位置する地域に、フェニキアという海洋国家があった。この国はレバノン杉で造った船で地中海を航行、アルファベット文字を考案、硝子や銀製品などを特産品としていた。BC1600年頃アクキガイ科の内蔵から取った液体で、緋紫色を染めるという技法を完成させた。地中海産の巻貝から得る紫色染料であり、ティル紫(ティリアン・パープル tyrian purple) と呼ばれた。1gの染料を得るために、約2000個の貝を必要としたとされる。原材料は貝の内蔵のなかに含まれるパープル腺から取り出す液体である。そもそもこの液体は本来貝が自分の身を敵から護るシビレ薬である。この液体を海水に薄めて太陽光線に当てたり繊維に染めると、黄色から緑色、更に緋紫に変化していく。その色相は妖艶であることから珍重され、王族だけが着用を許される<帝王紫 royal purple>となっていった。この紫色はレバノン杉の船に乗ったフェニキア人によって地中海の国家に広がり、ギリシャ、ローマ帝国の王に好まれていった。シーザーが暗殺されたあと、アントニウスがエジプトからクレオパトラを呼び寄せた際の船団や衣装の色は、この貝紫で染められていたと云われる。この貝紫はシルクロードを経て、古代中国にも伝わっていった。前漢(BC202~AD8)の武帝は紫色の色彩を好み、天帝の色と定め他の者の使用を禁ずる「禁色(きんじき)」とした。また、自らの住まいを紫宸殿とし、以来中国では紫が最高位の色となっていった。

 我が国においては推古天皇(593~628)の摂政になった聖徳太子は、隋の「律令制度」を見倣い、推古天皇11年(603)制定した「官位十二階の制」では、官僚たちを「大徳=濃紫」に始まって「小智=淡黒」の十二の位に分け。最も高位の色とされたのが紫色であった。詳細を述べると、徳、仁、礼、信、義、智をそれぞれ紫、青、赤、黄、白、黒の濃淡で表した冠で区別した。大化3年(647)に制定された「七色十三階の冠位」においても、濃紫は最高位の色とされ、「延喜式」においては、紫草が正税として納められていた記録がある。紫草は夏には白い小さな花をつけるが、この根は太く赤紫色で根に色素を含んでいるため「紫根」ともよばれる。染色は根を湯に浸けながら揉み込んで色素を取り出し、その抽出液に湯を加えて布を染めていく。触媒として椿の灰汁を使うと発色が促進される。延喜式によれば綾一疋染めるのに紫草30斤≒18㎏必要とされた。この紫草を栽培する畑を「紫野」といい、貴重な染料が採れる紫野(畑)は、一般人の立ち入りが禁止された「標野(しめの)」でもあった。これらを題材にした相聞歌が万葉集に載せられている。天智天皇、天武天皇(大海人皇子)の兄弟から愛された万葉の歌人額田王は、旧暦5月5日の「薬狩りの日」、夫婦で出掛けた紫野(滋賀県蒲生野)で、同行した大海人皇子が「紫(草)の 匂へる妹を憎くあらば 人妻ゆゑに恋ひめやも」と詠んだ和歌に返して、額田王は「あかねさす 紫野行き標野行き 野守は見ずや 君が袖振る」と、天智天皇の妻になっている私に愛を伝えようとする、かっての恋人大海人皇子の行動に躊躇して詠んだ和歌と解釈されてきたが、現代では朝廷の宴で額田王が詠んだ和歌だとされている。また、聖武天皇(724~749)は日本各地に国分寺を建立、その塔のなかに「金光明最勝王経」を安置した。それを記した濃い紫根の泥状の顔料を塗りかさねた色が、深(こき、ふか)紫色、 黒紫色を伝えているとされている。古代では位や身分は冠や衣服で区別されていたが、同じ色相では濃い方が上位とされ、これは色の重量感を身分の軽重に充てたものである.ムラサキ科ムラサキソウの根である紫根で染色した赤と青の中間色である紫色は、天平9年(757)に施行された「養老令」の規定では、朝廷の出仕に着用する朝服の最高位「深紫」となっている。

 平安時代になっても紫色は日本人に愛され、清少納言は「すべてなにもなにも 紫なるものはめでたくこそあれ 花も糸も紙も」と記している。また、一方の文学才女紫式部も、自らのペンネームに紫を称し、自著「源氏物語」では光源氏の母は桐壺の更衣、愛するひとには藤壷と名付け、いずれの花の色は紫。最愛の女性は紫の上と、紫色にゆかりの深い人々が登場している。また、光源氏は年の瀬になると、「衣配り」といって愛する女性たちに衣装を配った。最愛の紫の上には葡萄色を選んでいる。葡萄色と言えばエビ色、葡萄染(えびぞめ)は、藍に紅花を掛け合わせて染め上げた紫系の色で、赤みがかった紫色であるが、それぞれの染料の濃度によって様々な色相が表されてくる。平安時代においても、紫のもつ気品や艶やかさが尊ばれていた。また、紫根で染める紫色は揮発性が強く、置いておくと周囲まで紫色に染まってしまう事から「ゆかりの色」とも呼ばれていた。こうした「帝王紫」「古代紫」に対し、「江戸紫」は蘇峰を鉄の触媒で染め上げたものである。王朝の伝統を誇る上方の紫に対する、江戸庶民の対抗意識を表した紫が「江戸紫」である。次回の「紫の研究」はその江戸紫を追っていきます。   <チーム江戸>


江戸純情派「チーム江戸」

ようこそ 江戸純情派「チーム江戸」へ。

0コメント

  • 1000 / 1000