緋色の研究 ③世界の緋色 朱・丹・猩猩緋

 <緋色・朱(あけ)>は、古来から太陽が昇る色であり、生命の根源を表わす色である。人間の眼で識別できる色彩の中で、赤は最も目立つ色彩である。古くから魔除けの色として、神社仏閣の社殿や鳥居を飾る色として使用され、またそこに仕える巫女たちの大口袴も緋色である。一方、白色も神の色であり、白馬、白鹿など神の属性を表わす色として用いられている。古代中国では、地中から掘り出した「朱」植物染料である「茜」の根によって、緋色が表されてきた。その歴史は漢の時代に遡るという。陰陽五行説の五色「青、赤、黄、白、黒」の赤も、朱か茜の顔料であるため赤は緋色に通じた。なお、近世ヨーロッパの世界においては、赤は貴族階級を、黒は僧侶の身分を現した。文豪スタンダールの名作「赤と黒」は、黒から赤へと駆け上ろうとして挫折した、貧しい青年の物語である。

 キリスト教の世界において、聖衣は赤であり、イエスキリストの受難と復活を意味した。ローマ帝国の指揮官たちは真紅のマントを身にまとい、中世の騎士たちは白銀の鎧に、朱を指し込んだ盾や旗を持ち敵と闘った。ナポレオンの騎兵たちも、第一次世界大戦のイギリス歩兵隊たちも、朱色の制服を着用して戦った。また、世界各国の国旗も赤を使用している国が多い。わが国の日の丸を始め、イングランド国旗は白地に赤十字、聖ヨハネ旗は赤地にマルタ十字、ベネチア共和国(聖マルコ旗)は赤地に獅子、他にもフランス、ドイツ、イタリア、ロシア、中国などが赤を使用している。民族、国境を越えていろいろな国が、国旗に赤を使用しているのは、人類の血液が赤色であることに所以する。脊椎動物の血液は、赤血球の中にヘモグロビンという鉄分を含む、赤色蛋白が含まれており、酸素0₂と結合すると鮮やかな赤色となる。また、赤色は血中のテストステロンの値を上げ、戦意を高める作用があるという。敵を威嚇する、萎縮させると同時に、自分自身を勇気づける作用があるという。先の米国大統領はやたらと赤いネクタイをして演説した。しかし、世界の男性の約5%は赤緑色弱(赤系統、緑系統の色の識別に困難が生じる)であるため、この赤いネクタイ多用の効果は完璧ではない。なお、人間の薬指の長さは血中のテストステロン値に比例するという。薬指の長い男性はリスクを負うスポーツや、冒険、投資などにめり込みやすいというデータもある。また逆に、赤は理性を失わせ、青、緑は理性を高めるというデータもある。そのデータに基づき、病院では青、緑色を使用、交通機関の駅では照明を青っぽいものにすると、自殺者が減ったというデータもある。同じ色においても、その効果は様々である。

 我が国の信仰の世界に<丹色>がある。「播磨国風土記」によれば、神功皇后が三韓出兵の折、丹を生み出す女神・丹生都比売大神から、衣服武具、船などを全て朱色に塗るようにとのお告げがあり、これによって戦勝したと記されている。鉱物の色そのものが信仰の対象となっているのは世界でも珍しいことである。また、丹は本来土を意味し、酸化鉄、酸化鉛などの鉱物を含み黄赤をしている。<青丹>は、青土のような暗く鈍い黄緑色で、藍に黄はだを加えて染められる。奈良の都にかかる「青丹」は青色と丹色を意味、平城京の緑釉の屋根瓦と丹塗の柱の色彩美を現している。建築の世界における緋色には<弁柄色>がある。ベンガラ(酸化第二鉄)は、土の中に含まれる鉄分が酸化したような状態になっているもので、赤色顔料とては朱色と共に最も古く、氷河期の洞窟画もこの顔料を使用していると云われている。紅殻、鉄丹、代赬とも書き、有史以前から使用されている赤茶色の顔料である。黄味を帯びたものはトルコ赤、暗紫赤系のものをインド赤という。ベンガラという名称の由来は、インドのベンガル地方に良質なものが多く産出された事による。大航海時代、南蛮貿易によって、東インドの酸化鉄粘土は「インディアンレッド」として日本にも伝えられ、江戸時代にはベンガラに柿渋を加えた顔料が、建築物に多く用いられ、この赤土を練り込んだ漆喰壁をベンガラ壁と呼んだ。また<煉瓦色>は酸化した鉄分が混じった粘土を、900°に近い熱で焼き、赤褐色にしたもので、レンガは地震の少ないエジプトや、ギリシャローマ時代から建築材料に使われてきたが、地震が多く湿度が高いわが国においては、明治初頭、文明開化の象徴として、銀座辺りで西洋建築物として用いられてきたが、従来からの木造建築に馴染んでいる日本人には余り使用勝手が良くなく、人気はイマイチであった。

 芸術の世界においては<銀朱色>がある。硫化水銀の原鉱に水銀、硫黄を加え精製した人工顔料であるが、天然の真朱より鮮やかな赤色である。わが国には飛鳥時代の仏教建築と共に伝来、壁画や工芸品に用いられた。因みに年賀状の赤の色も銀朱、この慣習は平安貴族が年始に書欄を交換したことに始まるというが、現在のスタートは昭和24年からである。また、丹頂鶴のトサカも銀朱色である。翼を拡げると240㎝にも及ぶ、我が国最大の鶴であるが、近年では絶滅危惧種である。冬季「釧網本線」に乗ると、釧路湿原辺りで運がいいと、つがいで婚活している姿を見ることが出来る。この色をした花は中国から伝来した木瓜の花、バラ科ボケ属(人間界ではない)に属し、この名の由来は果実が爪に似ているから、木の爪からきている。「もけ」「ぼっくり」とも呼ばれ、千年木瓜、万年木瓜といった新種もある。土と炎の芸術といわれる焼物の世界における<緋色>には、真朱、照柿色、洒落柿色、赤朽葉色などがある。化粧の世界に欠かせない色は<朱色>である。古墳時代には墳墓の内壁や、死者の再生を願って用いられた。「真金吹く 丹生(辰砂)の真朱の色に出て 言はなくのみそ 吾恋ふらくは」万葉集では真朱は「まそほ」、恋する私の気持ちは、鉄を精錬する赤土のように、眼に見えるように色を出すのではなく、内に秘めて貴方を慕っていますと、万葉集では偲ぶ色になっている。

 戦いの世界においては<猩猩緋色>が活躍する。大航海時代にはスペインやポルトガルの南蛮人やオランダ、イギリスの紅毛人の来航により、いろいろな珍しいものが輸入された。これらの中に猩猩緋と呼ばれた動物性の顔料で、濃い臙脂色、深紅色に染められた羅紗、毛織物があった。戦国時代の武将は挙って彼らから手に入れ、陣羽織に仕立て戦いに挑んだ。顔料のひとつ「ケルメス」はブナ科の樹木に寄生するエンジ虫から取る。これを受け就いたのが「コチニール」である。ウチワサボテンに寄生する貝殻虫から採取する。旗指物や具足、槍、太刀などのあらゆる武具を朱色で固めた部隊、赤備えは、戦国時代、甲斐の武田信玄が考案したものとされる。信玄の武将飯富(いぶ)虎昌がこれを率い、没後、弟の山形昌景がこれを継ぎ、天正3年(1575)「長篠の戦」で織田、德川の鉄砲隊に破れるまで、武田軍の先鋒を務めた。滅亡した武田軍の赤備えを引き継いだのが、德川軍において常に先鋒を務めた井伊直政である。関ケ原など数々の戦場で「井伊の赤鬼」として恐れられた。逆の家康から最も恐れられた赤備えは、真田左衛門佐信繁(幸村)の部隊である。武田氏にも属した真田昌幸の次男である幸村は、自己の部隊を武田軍団に倣い赤備えとした。関ケ原の戦いにおいては、秀忠率いる德川本隊を、信州上田で足止めを食らわせ、戦場に遅参させた。更に、大坂冬の陣では大坂城南端に真田丸を構築、押し寄せる德川軍を悩ませた。続く夏の陣では、裸城となった大坂城天王寺口から家康本陣を突撃、旗本が崩れ家康本人も必死の思いで逃げ回った。「薩藩日記」には「真田日本一の兵、古よりの物語にもこれなき由」と称賛された。その薩摩軍も戦いが終わると敵陣中央突破を敢行、島津義弘は多くの犠牲を払いながらも故郷薩摩に立ち返った。

 日本一の兵・幸村は、歴史的な働きから見ると、長身で大柄で若々しい体格の持ち主であったとイメージされやすいが、後藤又兵衛の近習だった長沢九朗兵衛の日記によると、「真田信繁は44歳か45歳に見え申し候(中略)小兵なる人にて候」とある。また、幸村本人も大坂入城の際、姉の夫小山田茂誠に「昨年よりとしより 殊の外病者に成り申候 歯なども抜け申し候、ひげなども黒きは余りなえ候」と書き送っている。元和元年(1615)5月、幸村は家康の首を取れず力尽きて討ち死に、豊臣政権は崩壊した。翌2年、家康は胃がんのため、75歳でこの世を去った。歴史に<if>はないが、家康が戦場で討ち死にしていたとしたら、江戸幕府は続かず、その後の時代のイメージカラーは、猩猩緋色になっていたかもしれない。                江戸色彩の研究「緋色編 了」 

 


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