<江戸花暦> 江戸城を彩る四季の花たち①
春秋暑寒、四季を通じて江戸城内は、百花繚乱、樹々が芽吹き成長し、草花が花を咲かせる楽園である。長禄元年(1457)道灌が築いた江戸城について、幕府は慶長9年(1604)6月1日、城普請の計画を発表した。家康と、当時伊予国今冶20万石の藩主であった、藤堂高虎の二人が縄張りした江戸城は、家康に臣従した全国大名の、意地の張り合いによって進められた、日本最大の城郭である。縄張りとは、築城の設計、つまり地形を観察し、城取りの場所を決定、石垣、天守閣、櫓、多聞などの構築物の配置を決める事をいう。秀吉が築いた大坂城の外郭(外濠)の周囲が約2里、東西が約20町(1町≒109m)、南北約19町であったのに対し、江戸城のそれぞれは、約4里、約50町、約35町と、約2倍の規模を誇っていた。
慶長11年(1606)の工事分担書によると、「大手門」と石垣の普請は藤堂高虎、本丸、外郭の石垣は細川忠興が、また、寛永6年(1629)では、大手門は酒井忠世、玄関前石垣は土井利勝となっている。その大手門を潜れば、徳川260余年の政治、生活の場所であった曲輪内である。令和の時代、大手門左側にある、券配所で整理券を握り、少し進むと「同心番所」から、切込接で積まれた石垣となる。幕府は普請計画を発表した慶長9年8月、石材搬送に使用する石船の調達を、西国筋の諸大名たちに課役として命じた。加藤清正、福島正則、黒田長政、池田輝政らに加え、堺の豪商尼崎もいた。彼らは採石場である伊豆に、奉行と人足を配置、百人持ちの石を3000余漕の船が抱え、月2度、相模湾から江戸の海に入り、舟入り堀から普請現場に引きあげられ、積み上げられていった。
我々ビジターは、この石垣を大きく右に曲がり、江戸期は次期政権を担う、世嗣が生活していた「二の丸」へ向かう。左へ進めば「汐見坂」、家康入府の頃は、日比谷入江が独楽でのあたりまで迫っていた。二の丸庭園は寛永13年(1636)小堀遠州が、回遊式庭園として、造園したものであったが、慶応3年(1689)御殿が焼失、荒廃したままになっていた。昭和43年復興され「本丸跡」と共に、皇居東御苑として一般公開されている。二の丸入口は、現在、武蔵野を思わせる雑木林となっている。雑木林は古くから、人里に近い自然林を伐採、焼き払い、コナラやクヌギなどの落葉樹の再生力を活かした、利用価値の高い林をいうが、森林浴にもってこいの散策路になっている。抜ければ5本の欅の大木を囲む様に、久留米ツツジが密生、ツツジは漢字では、映山紅、躑躅などと書く。ネパールの国花ともなっているツツジは、古木は800年から1世紀に及ぶとされ、見頃は4月上旬から初夏の頃まで、色とりどりの花が絨毯を作る。レンゲツツジ、ヤマツツジ、サツキ、シヤクナゲが、この仲間に入る。都内では根津神社、神代植物薗が名所である。花の絨毯で珈琲ブレイクしたら、石の小橋の架かる湿田に足を向ける。そこは創作者の粋なネーミングで飾られた菖蒲園である。美人を例える言葉に「いずれ菖蒲か杜若」「立てば芍薬 座れば牡丹 歩く姿は百合の花」とあるが、今回の主役、花菖蒲はいずれも出て来ない。アヤメとショウブは、漢字に直すと共に「菖蒲」と書く。花菖蒲は野生のノアヤメが原種で、アヤメ科の植物に入るため、やはり美人の流れを汲んだ花となってくる。因みに端午の節句に入る菖蒲湯は、サトイモ科の植物で種族が異なる。見頃は6月初旬頃から始り、明治神宮や堀切菖蒲園などが見処。「時鳥 なくや五尺の あやめ草」芭蕉。花言葉は、うれしい知らせや優雅など数多い。
美人たちに惜別、次なる役者は藤棚に、百日紅の登場となる。藤はマメ科フジ属のつる性植物、名の語源は、凬が吹くたびに花が散るので「吹き散る」この意であるとされる。吉野の桜、高雄の紅葉、野田(摂津国野田村)の藤といわれる程、野田は藤の名所であった事から、別名、ノダフジとも呼ばれている。繊維植物として、万葉の頃から江戸期においても、仕事着として、またその柔軟性を利用して、家具などにも使用されてきた。見頃は4月中旬頃から、日枝神社、小石川植物園など、なかでも随一は、藤棚、梅林、船橋屋の葛餅、中之郷業平橋の蜆汁&令和ならスカイツリーと、四拍子も五拍子も揃った亀戸天神である。赤い太鼓橋から眺める花の海は、まさに天空の世界。江戸っ子たちはレジャー気分で訪れ、京の雅を感じさせる、色と香に酔いしれた。「目に遠く おぼゆる藤の 色香哉」 蕪村
藤棚の隣合わせに池畔に佇むのは、百日紅(さるすべり)。その名の通り初夏から秋の約3ヶ月間、鮮やかな紅色やピンク、白などの花を咲かせる。実際には1度咲いた枝先から、再度芽が出てきて花をつけるため、長く咲き続けているように見える。漢字では猿滑り、紫薇(しび)とも書き、猿でも登りずらそうな木肌をしている。余程コラーゲンの接種が、いき届いた植物である。夾竹桃などと夏の三赤に例えられ、花言葉は饒舌、雄弁、貴方を信じる。「散れば咲き 散れば咲きして 百日紅」 加賀千代女も詠んでいる。小堀遠州作の池をひとめぐり、緋鯉や真鯉、甲干している亀たちに挨拶しながら進むと、先程のツツジの楽園となる。更に道なりに進むと数寄屋造風の「諏訪の茶屋」、この辺りから日本全国、都道府県御自慢の樹々が、植え込まれているエリアである。茨城県なら梅、宮崎県ならフェニックスなど、自分たちの国(県)をイメージさせる樹々たちが、誇らしくお天道様を浴びている。確かに通り沿いの樹たちは鑑賞出来るのだが、奥の方に植えられている樹木までは目が届かない。中に入れる小路を造って頂くと、尚更に参考になると思うがさて、いかがであろうか?(作品を載せた時点ではそうであったが、令和3年には小路が造られて解決しました。)さあ、ここからはいよいよ「本丸」へ向かう「梅林坂」となる。
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