<江戸花暦> 江戸城を彩る四季の花たち②
本丸と二の丸の段差は約10m余、その間に現存している「白鳥濠」が設けられており、「汐見坂」と「梅林坂」が、本丸と二の丸を繋いでいる。汐見坂は当時ここから、江戸の海(日比谷の入江)がよく見えたことからこの名があるが、梅林坂は「江戸名所図絵」によると「平川御門の内にあり、文明10年(1478)太田持資(道灌)が、ある日昼寝をしていると夢を見、菅原道真の画像をここに勧請、梅の樹を数百株植えたといふ」この故事から名づけられたとされる。ふたつの坂の石垣を良く観察すると、慶長年間(1596~1615)家康時代の普請である乱積み、割石による算木積みのものと、元禄大地震(元禄16年)の翌年、宝永元年(1704)に修復された、切込ハギの石垣が見ることが出来て面白い。尚、切込ハギの築石の表面には、無数の縦線が刻まれているのが解るが、これは石垣の見映えを良くするための工夫で「すだれ仕上げ」という。また、梅林坂の両側は、伊豆方面の安山岩が使用されており、紅白の梅の樹木に隠れて見えずらいが、当時工事を担当した家(藩)の刻印を、見出す事が出来る。
二の丸庭園から梅林坂に向かう、手前の石垣の上の土手には、秋になると真紅の彼岸花が群生する。別名、曼珠沙華、サンスクリット語(梵語)で、赤い花の意味をもつ。人里に近い川岸や畦道などに群生、長﨑オランダ坂でも見事に咲かせるこの花、その名の通り夏の終り頃から、秋の彼岸の頃が見頃である。英名はSpider Lily,日本名は各地方で通ずる別名や、地方名、方言、異名が、数百から数千以上あると云われる。名称には球根に毒成分があるため、彼岸(死)しかないという説もあり、他に狐花、葉見ず花見ず、など変わった名称もある。この毒成分のひとつサランタミンは、んp日本人の認知症の60~70%を占める、アルツハイマー型の治療薬として利用されている。毒と薬は紙一重であるというひとつの証明となっている。花言葉は、独立、あきらめ、情熱と多様である。近郊では、埼玉県日高市(西武池袋線高麗駅)にある巾着田が見処、雑木林の中に500万本余の花が咲き乱れる。
梅林坂の梅は陽当たりが良いため、毎年1月下旬頃から蕾を膨らませる。この坂は江戸城の不浄門とされた「平川門」からの方が近い。元禄14年(1701)松の廊下で刃傷に及んだ、播州赤穂藩主浅野長矩は、ここから駕籠に乗せられ退出、即日切腹。正徳4年(1714)木挽町からの芝居見物により、門限に遅れた大奥総取締役江(絵)島は、この門を通れず、結果、白無垢1枚で、信州高遠に配流された。さて、梅の話に戻ろう。江戸の梅の名所は、亀戸梅屋敷、その向うをはった新梅屋敷の向島梅屋敷と蒲田の梅屋敷。梅は櫻と同じく、バラ科サクラ属の樹木、別名、好文木、木の花、春告草。原産地の中国では、寒い冬にでも雪の中で花を咲かせる梅、水仙、椿、蝋梅を「雪中四花」と呼び愛でてきた。日本へは遣隋使の時代、中国から渡来、万葉の時代は花と云えば梅、様々な和歌に詠まれてきた。また、菅原道真が大宰府に左遷された際に、京の屋敷にあった梅が、一夜にして九州大宰府まで飛んで行ったと云う「飛梅」伝説もある。その飛梅の枝を使い、太宰府天満宮の神官が彫刻した、天神像を祠に祀ったのが、本所亀戸天満宮の始まりとされる。その天満宮より「三丁ほど東のかた、清香庵喜右衛門が庭中に、臥龍梅と唱うる名木あり」と「江戸名所花暦」は記している。広さ3600坪の庭に、300余株の梅の樹の中でも、高さ一丈(約3m)の枝が、身をくねらす龍のようであった、臥龍梅を目当てに、江戸っ子たちは亀戸村に集まって来たという。安政2年(1855)の大地震により屋敷は倒壊、明治43年の水害で梅も枯れてしまった。 「白雲の 龍をつつむや 梅の花」嵐雪。
梅林坂を登り切ると、汐見坂から江戸城の表、中奥、大奥と続く、江戸大奥の奥「天守閣跡」にぶつかる。天守閣とは、城郭にあって本丸の要所に立つ櫓を指す。天守、天主、殿主とも呼ばれ、城主が指揮する場所であると共に、接見、物見、貯蔵の場所でもあった。家康、秀忠、家光と、祖父、父、子の三代の確執の為か、まだ、幕府の財政が豊かであったせいか、将軍権力の象徴、天守閣が代替わりの度に築き治された。慶長17年(1612)家康、元和9年(1623)秀忠、寛永3年(1626)家光と建て替えられた。慶長の天守閣は富士見多聞の辺り、元和と寛永の天守閣は、現在の天守台とほぼ同じ位置に建てられていた。明暦3年(1657)に起きた、明暦の大火の2度目の飛び火が、高さ64m、五層構造の天守閣の隙間から入り炎上した。時の将軍補佐役保科正之は、天守閣の再建を見送り、民政を優先、以後、徳川幕府は従来の武断政治から、文治政治へと大きく舵を切り、元禄、文化・文政と、江戸文化の華を開かせた。現在の天守台は、加賀の前田家による花崗岩造り、東西41m、南北45m、高さ12m、現在でもこの天守台跡に登ると、高層のビルに遮られるものの見通しはいい。庭園都市江戸の頃なら、北に筑波、東に振れば神田、日本橋、京橋の下町、その先には滔々と流れる隅田川や、江戸の海から房総の山々が見渡せた。更に南に目をやれば、丹沢の山々の向うに、江戸人のシンボル、霊峰不二がどっかと腰を据えていた。維新になると、この天守台上に、明治15年、当時の気象台が設けられ、観測が行われていた。
天守台の南下が、14代家茂の時代、約400人の奥女中たちが働き生活していた「大奥」、南へ「中奥」「表」と続く。表は幕府の政庁で、南から大広間、檜の白木造りの白書院、黒漆塗の黒書院と続いていた。西側コースを進むと、災害時は避難場所、倉庫として使用していた「石室」、慶長の天守閣があったとされる「富士見多聞」から「松の廊下」へと続く。多聞とは、城郭の石垣上に建てられた長屋で、城壁より強固な防御施設である。江戸城での現存はここだけとなる。大広間と白書院を結んでいたのが「松の廊下」城内2番目に長く全長60m、幅4mの畳敷、襖に松と千鳥の絵が描かれていた。因みに書院とは、床の間の横、屋外にに近い側に障子窓がある飾りの事、元々は作り付けの机の上で、読み書きをする書斎の役割をしていたが、現在ではインテリアの用途しての、意味合いが大きい。松の廊下跡付近は坂道が多く、その傾斜を利用して、梅雨の頃ならしっとりと、雨に濡れた紫陽花の群生落が見られる。万葉集では味狭藍、安治佐為の字を当てている。集まって咲く、厚く咲くなどのイメージから、この名称がついたとされる。原種は日本に自生するガクアジサイ、青、赤、緑(ヤマアジサイ)、白のガクの大きい花をもち、これが変化し球形になったものを、手鞠咲きと呼ぶ。愛妻家シーボルトは、新種だと勘違いして、妻おタキさんの名を借り、Hydrangea Otaksa と名付けている。この紫陽花、七変化とも八仙花とも書くが、土壌のPHにより、花の色が変化、酸性なら青、アルカリ性なら赤、もう少し厳密にいうと、土壌にAl(アルミニウム)が溶け出していると青、溶け出さないと赤と、花の色が変化する。花言葉も当然、色によって異なる。青は冷淡、辛抱強い愛情、赤、ピンクは強い愛情、白は寛容で結婚式の装飾などに使われる。これからの人生この二文字で、継続年数が変わってくる。全体的な花言葉は、七変化と書く故、当然の如く、移り気、浮気となる。
江戸城花の旅もいよいよゴール、紫陽花の登り道をさけ、そのまま進めば染井吉野が終わる頃、見頃になる「咲いてから 盛りの長い 乳母桜」ならぬ、八重の櫻の並木道となる。小手鞠、石楠花などの雑木林の中を、更に東に抜けると「富士見櫓」となる。天守閣炎上の後は、この櫓がその代わりをした。江戸の海に点を打った「佃島」の祭り、6本の大幟を将軍様、この櫓から眺めた事であろう。他にも、桜田二重櫓、伏見櫓が現存している。先程の梅見坂同様の石垣を観察しながら、ゆるりと坂を降りていけば、大手門の券配所、門を出れば内堀の白鳥が羽根を休めている。2023年の春の櫻の季節には、「江戸城内堀」に迫り、そこに彩る樹々や草花を愛で、お送りします。シリーズ「江戸花暦」は、四季の七草・向島百花園、ふたつの象潟・合歓の花(未)ざくろ抱く二人の鬼子母神(未)etcです。
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