<江戸花暦> 江戸城内堀に咲く花たち①
約6万年前のネアンデルタール人の、埋葬された遺骨の周りには、沢山の花粉が残されていたという。地球上に沢山の花が登場するのは、人間が農耕を始めるようになってからだという。花の色で衣服を染め、花で髪飾りをして、頬や唇を紅で染めて、人と人との仲立ちの役割をしてきたのが、地球上の花たちである。花の命と人間の命はままならぬもの、花は太陽と水により成長する。人の命はその人がもって生まれたDNAによるという。一生をかけて分裂する細胞が、生きている間に何回分裂するかによって決まるという。折角ご先祖様から頂いた長生きのDNA細胞を、何回分裂させるかはその人の生活習慣次第である。勝手気ままに不摂生極まりない生活を、毎日繰り返していると、折角のDNAが死滅若しくは減少、その人の人生も短くなるという次第である。暑さ寒さも彼岸までという。花たちも自然の恵みの中で、そのサイクルに合わせ自生してきた。人間様もまたしかりである。寒かった江戸も、これから一雨毎に暖かくなっていく。鳥が啼き、虫が穴から這いだし、木々が芽吹き、人間様にとっても、ほんのりまったりの、春のうららの隅田川の季節となる。2022、春の江戸城内に続き、23年は江戸城内堀に咲き乱れる懐かしい花たちを、皇居マラソンコースと同様に、大手町から左廻りに歴史と共に愛でていくことにする。因みに、「堀」とは、敵や動物の侵入を防ぐため、古代から近世にわたって、城郭、寺社、住居などの周囲に掘られた溝の事をいう。また、人、物を運ぶための運河として、掘られたものもある。平城や平山城で中心となる、本丸の周りに幾重にも堀を巡らせた際に、本丸に近い堀を「内堀」、遠い堀を「外堀」と呼び分けてきた。
江戸城の正門であり、勅使饗応や将軍の出入りなどに使われた「大手門」は、高麗門と渡櫓門で構成された、典型的な枡形門である。内桜田門(桔梗門)や西の丸大手御門と共に、江戸城の重要な門であった。慶長11年(1606)藤堂高虎などによって縄張りされ、翌12年完成された。明暦の大火後の万治2年(1659)再建、元和6年(1620)江戸城修復の際、伊達政宗、酒井忠世らによって、現在の枡形門になった。警備は10万石以上の大名2人、鉄砲30丁、弓10丁、長柄20丁と厳重なものであった。因みに、忠世の孫忠清は大手門の下馬近くに屋敷があった為、「下馬将軍」と呼ばれた。大手高麗門を潜ると正面左に、鯱が鎮座している。明暦の大火で飾られていた渡櫓門が焼失、万治2年再建された時のシャチであるが、再度、昭和20年の東京大空襲で門が焼失、鯱だけが焼け残され、枡形の広場を飾っている。大手門の前面に拡がる大手町は、幕閣を担う譜代大名や親藩の上屋敷が置かれていた。元々、家康入府の頃は、新橋汐留辺りから常盤橋御門辺りまで入り込んだ、深さ1間程の浅瀬「日比谷入り江」であったものを、道三堀の排出土と神田の山を切り崩して埋め立て、大名小路としたものである。明治5年、大名小路と道三町、銭瓶町、永楽町などが合併して、大手町1、2丁目を起立。この辺りは丸の内のオフィス街にあたるが、「丸」とは、堀で囲まれた城の内側、城郭(曲輪)の内側を指している。丸の内という地名は、全国の城下町に存在する。「夕立を 四角に逃げる 丸の内」
大手門から枝垂桜の堀を北へ向うと「平河門」である。平河門は三の丸の正門であり、御三家の登城門、大奥女中たちの通用門であった。西の「竹橋門」より侵入して来た敵を迎撃出来る様に、平川濠に伸びた細長い城郭(帯曲輪という)をもつのが特徴である。(江戸切絵図参照)元禄14年(1701)3月、播州赤穂浅野長矩は松の廊下で刃傷、この門から出され即日切腹、正徳4年(1714)大奥総取締役絵島は門限に遅れ、これが大奥を揺るがす大事件に発展、結果、絵島は信州高遠へ流されていった。こうしたことから、この橋の側の門を不浄門という。(江戸物語<地之巻>木挽町6丁目参照)平川濠を少し登れば「竹橋御門跡」。江戸城内曲輪十五門の一つである。家康入府の頃は「竹を編み手渡されしよりの名なり」現在はコンクリート製の橋が掛かっている。メトロ東西線竹橋駅1aが至近である。この辺りは旧平川の流路であり、日比谷入り江の最奥部であった。家康の孫、秀忠と江の長女千姫が、2度目の夫本多忠刻と死別、娘の勝姫と江戸に帰り、天樹院と号して尼となり竹橋御殿に移り住んだ。近くには阿茶局の屋敷もあった。竹橋から、通称代官町通リの坂を少し登れば、江戸城北側守りの最重要拠点「北拮橋門」となる。このため形状を城側に跳ね上げる跳ね橋形式としている。江戸時代には、ほとんど跳ね上げた状態であったとされ、現在でも滑車の金具の跡を見る事ができる。この門は天守閣北側と北の丸を結ぶ城門であり、橋の袂から天守台が良く見える。また、この辺りの石垣は「土塁式石垣」といわれ、構造的には三段構造。基礎は水の中の大型の根石、その上に腰巻石垣と呼ばれる石を積み、更にその上に幅二間弱程の腹巻土塁を築き、黒松などが植えられる。使われる土は、濠や曲輪の土砂、この土砂を叩き固め、芝生などを植えて崩れるのを防いでいる。
文部省唱歌「春の小川」美空ひばりの「花笠道中」にも唄われる菫(スミレ)や蒲公英(タンポポ)は、春の野草の定番であり、日本の春の原風景である。濠沿い生垣の中に、よく観察すると可愛い花を覗かせている花たちである。スミレは春の野山や道端、都会のコンクリートのひび割れ部分などからも花を咲かせる、生命力の強い野草である。スミレ属スミレ科、世界では500種、日本でも50種、深い紫(菫色)の花を咲かせる。花は酢の物や吸い物に、葉は天麩羅や茹でておひたしにすると、野趣があって旨い。因みに、パンジーやニオイスミレなどには、有毒なものがあるため要注意である。学名はmaandshurica(マンジュリカ)、満洲のという意味となる。日本では「立てば芍薬、座れば牡丹、歩く姿は百合の花」が、美人の代名詞となっているが、ヨーロッパではバラ、ユリに加え、スミレのような謙虚さ誠実さをもった女性が理想像とされている。「山路きて 何やらゆかし すみれ草」芭蕉。花言葉は小さな幸せ。
タンポポは、菊科タンポポ属の総称、茎の両端を細かく裂くと、反り返って鼓のような形になる事から、別名「鼓草(つつみくさ)」また、鼓を叩くタン、ポンからきたともいわれている。我が国では約20種が自生している。関東タンポポと西洋タンポポがあり、都市近辺で見られるのは、花のすぐ真下がめくれているのが、帰化植物の西洋タンポポで、殆どが帰化植物に押されている。因みに、長野県以西の花は、関西タンポポという。英語名dannde lion(ライオンの歯)は、独特の葉のギザギザからきた名称である。この若い葉を水さらしてサラダに、花は天麩羅にしても旨い。同じキク科で、綿毛を付ける植物に、ノゲシ(野芥子)などがある。
明治になってから、西の丸裏門から移築されて修復された「乾門」から、代官町通リを横断すると「北の丸」となる。現在の武道館などがある北の丸公園である。西側、千鳥ヶ淵を望む城壁に立つと、春爛漫の季節は、桜の古木が水面にまで枝を伸ばし、ハラハラと散る花びらが川面に浮かび、花筏を作っている。対岸の桜並木と江戸城北の丸の石垣と、古木がコラボした正に絶景、桜の独壇場となっている。武道館北側の門が「田安御門」この御門の東側は「牛が淵」から九段下、俎板となる。西側は千鳥ヶ淵となって、千鳥が羽根休めたような掘割を形成している。八代吉宗以降、門内側の左に江戸御三卿のひとり田安家、右に同じく清水家の屋敷があり、奥に朝鮮馬場もあった。内堀沿いに半蔵門方向にいたる地域が代官町で、家康入府のころ、関東総奉行の内藤清成など、幕府直轄領(天領)を支配する代官たちの拝領屋敷があったことによる。江戸の地方公務員、代官と郡代の違いは、税の徴収など職務は同じであったが、代官は約5万石の領地を、郡代は約倍の10万石の領地を担当していた。寛永年間(1624~44)までは、駿河大納言忠長や天樹院、春日局の屋敷などがあった。
春の野草で最近余り見かけられなくなったものに、ツクシ(土筆)スギナ(杉菜)などがある。「ツクシ誰の子 スギナの子」といわれるように、ツクシが枯れる頃スギナが同じ地下茎から芽をだしてくる。ツクシは土筆菜、筆の花、つくしんぼともいい、スギナの胞子茎で、付子とも書く。つまり、同じ地下茎からツクシ、スギナと二種類の芽を出している事になる。スギナの根は深く、地獄まで届くという。ツクシの茎を干したものを、漢名で「門荊(もんけい)」といい、解熱、咳止め、利尿に効果がある。また、胞子の粉は切り傷にいい。食用としては、若いツクシを摘み、固い袴をとり、茹でて水にさらしで油でいため、醬油、味噌、酒で味付けすると立派な酒の肴となる。また、和えたり、佃煮、酢の物にしてもいい、明治天皇はツクシが大好物であったという。花言葉は向上心、努力。「つくづくし ここらに寺の 跡もあり」千代女
♪「土手のスカンポ ジャワ更紗 昼は蛍がねんねする」と唄った文部省唱歌「スカンポの咲くころ」北原白秋作詞、山田耕筰作曲で懐かしい「スカンポ」は、タデ科ギシギシ属の多年草植物、緑紫の花を5~8月頃つける。別名「酸葉(スイバ)」の由縁は、茎や葉を噛むと酸っぱいのでこの名がある。さっと茹で三杯酢で和えると旨い。また、今では土手や山肌で見つけられない野草に「ノビル)野蒜)」がある。この野草はネギ科ネギ属、葱や韮の仲間で、臭いももどきである。葉の付け根に多肉性で、球状のムカゴ(肉芽、珠芽ともいい、地上に落ちると発芽する)を付けている。食用としては、球根をよく洗い味噌をつけて食べると、ピリッと辛く野趣があり、熱燗のアテにいい。また、葉や茎を炒め豚肉を加え、味噌で和えるのは冷が合う。他に、ナデシコ科ハコベ属の仲間として、「ミドリハコベ(緑繁縷)」がある。ハコベラがハコベに転嫁したといわれているが、昔から食べられてきた春の七草のひとつである。これをさっと炒め、卵でとじると見た目も春らしい、ビタミン豊かな食材となる。
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