<江戸花暦>江戸城内堀に咲く花たち➁
田安門から千鳥ヶ淵・半蔵門・桜田門・二重橋
田安門を出ると九段坂にぶつかる。江戸の町は山の手台地と、埋立の御城下町からなっている。その間を結んでいるのがいくつかの坂である。中でも1番大きく急な坂が九段坂であった。台所町があった飯田堀・俎板橋から「甲州道中」市ヶ谷見附に向かう坂である。坂の上から江戸市中が見渡せ、月の名所でもあった。宝永6年(1709)坂の北側に九段の石段が築かれ、それぞれの坂に御用屋敷が建てられ九段屋敷と呼ばれた。坂も飯田坂から九段坂となった。この辺りは馬喰町からの「江戸四日めぐり」西方最奥部となる。(江戸物語88<地之巻>第2章参照)千鳥ヶ淵に沿って進むと、右はインド大使館、左は千鳥ヶ淵と北の丸の石垣と🌸のびゅうスポット。整理された遊歩道が続き、桜並木の合間に今なら「ユキヤナギ」が白い花を覗かせ、「ツワブキ」が黄色な花を控えめに咲かせている。ツワブキ(石蕗)は、花が少ない初冬から咲き出す。フキに似ていて、光沢、ツヤがある葉をつけるのでツヤブキ、これが転訛してツワブキとなったという。もう少し暖かくなると道灌が愛した、七重八重の「山吹」の季節となり、🌸とのコラボもいい。千鳥ヶ淵の名の由来は、形状が千鳥が羽根を拡げた様子からとも、Ⅴ字型の淵が千鳥が飛ぶ姿に似ているからともされる。麹町・番町辺りからの局沢川の水を溜め、家康入府の頃は、飲料水として使われていた。因みに、「淵」は流れていた自然の川が堰き止められたもので、「堀」は湿地帯を縄張りした、人工的な河川(掘割)をいう。(天之巻第5章 江戸上水記参照)千鳥ヶ淵からの緑道と「乾門」から直進してきた道が半蔵濠にぶつかり、左に折れるとそこも四季の草花が咲き乱れる楽園であり、花壇も設けられている。道路ひとつ向こうはイギリス大使館である。
古書「江戸花暦」によれば、茶、桑、漆、楮(こうぞ)を江戸の四木といい、藍、麻、ベニバナ(紅花・末摘花)を、江戸の三草という。古代律令制ではベニバナは「調」のひとつであった。源氏物語六帖に登場する、鼻の赤い頑固な性格の姫君を「末摘花(すえつぐばな)」と、光源氏は渾名(雅名)してこう呼んだ。鼻が赤い事と、ベニバナの花が赤い事をかけたのである。「なつかしき 色ともなしに 何にこの すえつむ花を 袖にふれこむ」現代語訳にすると、親しく惹かれる色(女性)でもないのに、どうして赤い花(鼻)の姫君と契りを結んでしまったのだろう となる。光源氏はこの姫君を妻の一人とした。光源氏は葵の上の葬儀にこの色の喪服を使用、紅花は茜とともに、貴族好みの朱であった。花言葉は包容力。茎の末端から咲き始める花を摘み取って、染料に用いた事からこう呼ばれてきた。染色に花弁そのものを用いるのは、このベニバナと露草(つゆくさ)だけといわれる。「ベニバナ」はキク科ベニバナ属、原産は遠くアフリカ・エチオピア、イスタンブールからSilk Roadを経て、BC中国の北方匈奴に伝わり、AD2~3th頃後漢に伝わり、我が国に伝来した。藤ノ木古墳からもこの花粉が検出されている。古くは和名を中国伝来の染料の意味として「呉藍(くれあい)」と呼んだ。
ベニバナの花を摘んで水にさらし、揉んで乾燥させる。この工程を何度も繰り返すことによって、黄色い花は次第に赤色に変化していく。水に溶けやすいベニの色素が99%、溶けにくいベニのカルタミンという色素が1%、故にベニの値段は高い。良質なベニは玉虫色の輝きをする。江戸の頃は、本町辺りの紅屋で「小町紅」の商品名で売り出された。(天之巻第16章江戸のけわい 参照)玉虫色を出すには何度も口紅を重ねなければならない。江戸の娘たちは、このベニが高かったため、下地に先ず唇に墨を塗り、その上にベニをひき玉虫色を演出、男たちを惹きつけた。こうして、古代ミイラの布の防腐にも使われたのを始め、花から紅色の色素を抽出、口紅や頬紅、衣類の染料の他に、漢方の血行促進の生薬や、ツボに塗って灸をする紅灸、サラダ油などの食用油(サフラワー)として活用されてきた。花を観賞するといういうよりも、生活に密着した花であった。最上川流域に育つベニバナは山形県の県花、これに因みJR東日本、新潟~米沢間の快速列車は「べにばな」、山形市の花形キャラクター「はながたベニちゃん」が活躍している。
源氏物語に因む花をもう一輪。その名も「ムラサキシキブ(紫式部)」、シソ科の落葉低木であるが、3mほどにもなる。別名ミムラサキ(実紫)とも、ムラサキシキミ(紫重実)とも呼ばれ、日本各地の林に自生する。秋にピンク色に近い淡い紫色をした果実をつけ、花よりも果実を鑑賞する。ラテン語では美しい果実を意味する。白色果実はシロシキブと呼ばれる。元の名は「ムラサキシキミ」。シキミ(重実)とは実が沢山なるという意味をもつ。我が国の他、台湾、朝鮮、中国に分布、京都では嵯峨野・正覚寺が有名である。また、JR東海道本線(琵琶湖線)、石山駅から数分に、紫式部が源氏物語を執筆した近江石山寺がある。故にムラサキシキブの花言葉は、彼女から連想して「聡明」、「多くの女性を虜にした光源氏からは「愛され上手」となっている。
「半蔵門」は甲州道中(国道20号線)に通じ、大手門とは正反対の位置にある。為に江戸城の表門はこの門であるという説もある。当時の門は昭和20年の東京大空襲で焼失、現在の門は、和田倉門の高麗門を移築したものである。いわゆる曲輪内というのは、この半蔵門、外桜田門、神田橋御門、常盤橋より四里四方を指す。(地之巻第三章 街道をゆく参照) その時代半蔵門は江戸城の搦手門であり、この門の側に服部半蔵正成の屋敷があった。その部下伊賀同心が組屋敷を構え、非常時には将軍を番町から麹町、四谷の大木戸から内藤新宿の百人与力、高井戸、八王子千人同心から、幕府の天領である甲府へと、安全に避難させるための体制を整えていた。城内には吹上庭園と先代、次期の将軍の屋敷があった。半蔵門を南に進むと「桜田濠」、三宅坂沿いに警視庁から桜田門までのゆるい下り坂は、掘割の曲線美と土塁と石垣上の松並木の調和が美しい、江戸城きってのお勧め美観地区である。徳川の天下普請の見事さが伺われる場所である。桜田濠の土手沿いは、陽当たりにも恵まれ花をつける植物たちにとっても楽園となっている。
この土手に咲き乱れる「レンゲソウ」は蓮の花に似た草から、蓮華が名の由来となっている。「紫雲英」が標準和名、中国原産でマメ科ゲンゲ属の多年草、田圃など湿った土壌を好む。茎の長さは10~25㎝、蜜蜂が好む花の色は紅紫色、稀に白色もある。中華料理に使われるスプーン、レンゲはこの花の形からきたとされる。レンゲソウは春の季語で、若菜は茹でて花は天麩羅にして、漢方薬としても使われている。また、まだ化学肥料が使われていなかったひと昔前では、緑肥(草肥・くさごえ)や家畜の飼料として、8~9月頃の稲刈り前の田圃の水を抜いて、種をまき翌春に花を咲かせ、そのまま肥料として、田圃の土に混ぜ込んで使われていた。レンゲ畑と呼ばれ春の風物詩であった。千葉県大多喜町にレンゲの里がある。レンゲのÑ2(窒素)固定力は、わずか10㎝の生育で、凡そ10㌃1トン分となり、根についたバクテリアはÑ2肥料として、4~5㎏に相当した。貴重で安価な窒素肥料となった。 同じマメ科には花がよく似た「カラスのエンドウ、スズメノエンドウがある。こちらはソラマメ属である。また、カラスとスズメの間の大きさのエンドウを、「カス間草」と呼ぶ。カラスとスズメの間で、「カ」「ス」「間」草という次第になる。また、面白い川柳には、 「手に取るな やはり野におけ レンゲソウ」というのがある。レンゲソウを遊女にたとえ、野に咲いているから美しいのであって、自分のものにしてしまえば、その美しさは失われてしまうといっている。端から見てるといい場合の方が沢山ある。また、最近の能力がなかったり、金ばかり欲しがり、悪さをする政治家に対しても、当てはまる句である。
レンゲとくれば、水仙と菜の花も登場する。「スイセン」はヒガンバナ科のスイセン属の多年草、種は出来ず鱗茎の根根で増える。地中海沿岸から中国南部が原産、別名「セッチュウカ」。学名Narcissus(ナルキッソス)、語源はギリシャ語で麻痺という意味のナルケ説と、ギリシャ神話に登場する、水面に映った自分に恋するナルキッソスからきたともいわれる。そこから花言葉は「自己愛(ナルシスト)」、彼が水に落ちた跡に咲いた花は、縁が赤く染まっている「クチベニスイセン」だと言う。11月頃から4月頃まで一般によく見られる白色の「ニッポンスイセン」は、ひとつの茎に数個の花を咲かせる。一方、やや大振りの黄色や白色の花を咲かせ、縁がフリルのようなに波うち、つきだしているものは「ラッパスイセン」という。
「ナノハナ」は弥生時代に渡来、時期的な呼び方には、花を食用にする時の若い葉の時期を「春菜」春は名のみの早春賦の頃である。花の黄色も鮮やかな、香りも清々しい花の時期を「菜花(ナバナ、菜の花)」さながら霞める朧月夜の頃である。花が実を結び種が出来始めると「菜種、油菜」シトシトとした菜種梅雨の頃である。これらをまとめて「ナノハナ」と呼ぶ。また、別の分け方もある。セイヨウアブラナ科アブラナ属の「セイヨウアブラナ(ナノハナ)」は、ちじれた葉の基部が茎を取り巻いているのが特徴で、花は鮮やかな黄色で十字形、食用油を取る。茎を取り巻いていないのが「セイヨウカラシナ」葉をかじるとピリッと辛い味がする。種から辛子を作る。菜の花は千葉県の県花であり、ひと昔前は東京と千葉を結ぶ、黄色い総武線の電車を菜の花電車、声のよく通るサービスのいい車掌を、カナリア車掌と呼んでいた。歴史作家司馬遼太郎も菜の花が好きで、自分の作品にも「菜の花の沖」があるが、命日も「菜の花忌」としている。
同じアブラナ科には秋の七草のひとつ「ナズナ」がある。別名ペンペン草、実の形を三味線のバチにたとえたものであるが、実を少しはぎ、耳のそばで茎を振ると、ペンペンと音が聴こえる。和名は「撫で菜」古くは「奈都奈」といった。茹でると鮮やかな緑色を呈し、甘みがあり旨い。もうひとつアブラナ科の一年草に「ムラサキハナナ」がある。3~5月頃開花、江戸の頃にはいってきたものが、栽培されるかそのまま野生化したものが多い。漢字では「紫花菜」、正式名「大紫羅蘭花(オオアラセイトウ)」、別名「花大根」「諸葛菜」また、日中戦争を繰り返さないという思いを込めて「peace flower」と名付けられている。 中国原産で青みかがった紫色の花を咲かせ、実用面では野菜としての利用や、油を採取する点ではアブラナと共通点がある。古代中国、三国志の時代、蜀漢(中国西部四川省辺り)の宰相、諸葛孔明が、救済のため,戦場の食料として拡めたとされる食材がこの紫花菜である。為に別名諸葛菜と呼ぶ。花言葉はこれを踏まえて、聡明、優秀、溢れる知恵といい言葉が並んでいる。
三宅坂を桜田濠(江戸の頃は弁慶濠と呼ばれていた)を、名水の井戸などを見ながら、ゆるりと下りると桜田門(外桜田門)、江戸城の小田原口に寛永13年(1636)江戸城惣構えの際に、西の丸の南側入口として枡形門に改修。現在の門は寛文3年(1663)に再建されたもので、枡形は15間×21間 320坪、江戸城の中では最大規模を誇っている。万延元年(1860)旧3月3日、春にしては大雪の降る「上巳の節句」の日、時の大老、井伊直弼は彦根藩上屋敷から、60名ほどの供を従え、江戸城桜田門にむかっていた。上屋敷は三宅坂上、現在の憲政記念館にあたる。桜田門を潜ると皇居前広場の松並木が見えてくる。家康入府の頃は、江戸城汐見坂から東約7~8丁≒800m、現在のJR山手線辺りまで、更にその東は江戸前島となる。南は新橋汐留辺りまでを「日比谷の入り江」と呼んだ、深さ一間ほどの遠浅の入り江が入り込んでいた。最奥部は常盤橋、竹橋辺りである。家康はこの浅瀬を三浦按針の意見などを勘案、道三濠の排出土、神田の山の土をもって埋め立て武家屋敷地とした。この地を幕政を担う親藩、譜代大名たちの屋敷として貸し与えた。第1の「大名小路」である。第2の大名小路は芝愛宕下にある。元禄15年(1702)吉良を討ち取った大石内蔵助は、ここに屋敷を構えていた大目付仙石伯耆守に口上を述べている。現在では都心とは思えない広さの皇居前広場では、ママ友たちが子供たちとランチを開げ情報交換をしている。
「西の丸正門」は、現在の皇居正門にあたる二重橋である。この名の由来は、かってこの橋の奥の鉄橋が、二階建てのトラスト構造の木橋であった事からによる。その南側は日比谷の交差点、更に進めば新橋、虎の門。東へ進むと「江戸前島」の尾根にあたる銀座4丁目となる。城の石垣を映す日比谷濠には白鳥たちが翼を休め、亀たちが日向ぼっこをしている。雨水や排気ガス、人間たちのゴミで汚れた日比谷濠の水は、浄化され隣の桜田濠に送られて循環されているという。日生劇場や昭和天皇とマッカーサーとの会見の舞台となった、旧明治生命のビルを眺めながら北へ進むと、正月一般参賀の退出専用門となる「坂下門」、枡形は残っておらず渡櫓門のみが残されている。文久2年(1862)旧1月15日、桜田門外の変に続く「坂下門外の変」がおきた。「公武合体」運動を進めていた老中安藤信正は、これに反対する水戸浪士らに襲撃される。この事件は未遂に終ったが、先の事件と共に、幕府の威厳を著しく低下させていった。元治元年(1864)「蛤御門の変」「長州征伐」慶應2年(1866)「薩長同盟」同3年「大政奉還」同4年「戊辰戦争」と、日本は大きく変わっていった。
「桔梗門(内桜田門)」は、江戸の基礎を築いた太田道灌の家紋・桔梗の紋が屋根瓦にあった事からこう呼ばれる。明治以降は枢密院がおかれ、現在は皇宮警察本部があり、ここから巽櫓(桜田二重櫓)富士見櫓がよく見える。富士見櫓は明暦の大火で天守閣が焼け落ちてからは、天守閣の代わりをしたとされ、代々の将軍様も、佃祭りの6本の幟などはここから眺めたとされている。江戸時代、太平洋岸の物質は、下総銚子から利根川を遡上、関宿から江戸川を下り、新堀川を経て中川の船番所で挨拶、小名木川から隅田川に出て,日本橋川に入った。一石橋から伸びていた道三濠(明治42年埋立)の終点は「和田倉門」となる。以上が水運にたよった江戸物流のひとつのルートである。「和田(ワダ)」とは、古代用語で海を意味する。島国日本で獲れた物資を、江戸城の蔵に格納してきた。明治5年、江戸・東京の下町を焼いた「銀座の大火」と呼ばれる大火事は、この和田倉門の脇に構えていた、徳川家の藩屏、奥州福島会津藩上屋敷から出火、消防施設もままならなかったこの時代、火は木造家屋をいいように舐め尽くし、隅田川まできてやっと鎮まった。これを契機に銀座は煉瓦街の建設にのり出す事になる。さあ、そこはスタート地点の「大手門」である。
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