<江戸花暦>酔狂な江戸の雪見を転ぶまで

 「雪見」とは、雪の降る様や積もった景色を見て楽しむ事、及びその際の遊びを指す。観雪、賞雪、看雪とも称した。気温で指すと摂氏5℃前後を「雪冷え」といい、「花冷え」は10℃前後を指した。天から降る雪は、月や花と並んで古くから歌の題材になっており、虫聞き、香道、音楽(琴の音)、紅葉を愛でると共に、平安貴族の嗜みとなっていった。特に貴族たちの必須課目は詩歌と管弦であり、女性においては、手習い、琴、和歌の教養であった。因みに江戸粋人の嗜み(楽しみ)はといえば、花作りに料理、旅であった。日本の自然の美しさを形容する言葉に「雪月花」がある。四季折々の自然美を代表する「冬の雪」「秋の月」「春の花」を総称する言葉である。この言葉は、中国、唐の中期に活躍した白居易の漢詩からきている。白居易の詩といえば、玄宗皇帝と揚貴妃の悲劇を歌った「長恨歌」が有名であるが、雪月花は「寄殷協律」の一文「雪月花時最憶君(雪月花の時、最も君を想う)」からきた言葉である。万葉の歌人、大伴家持も「雪の上に 照れる月夜に桜の花 折りて贈らむ 愛しき子かも」と詠んでいる。また、これらに時鳥を加え「春の花、秋の月、雪の曙、夕さりの時鳥」として賞する事もある。平安時代以降、此の言葉は、日本人の風雅の心の根幹を形成、美的生活を支える基盤となっていった。雪月花をあてたものに、日本三景では、天の橋立を雪、松島を月、宮島を花(紅葉)とし、また、三名園では雪は兼六園、月を後楽園、花(梅)は偕楽園としている。しっくり結び付いたであろうか。お馴染み宝塚歌劇団の組分けもここからきているという。

 江戸期、雪景色を描いた絵には、江戸名所図会の「二軒茶屋」をはじめ、北斎冨嶽三十六景「礫川雪ノ旦」歌川国芳名所絵「雪見舟図」広重名所江戸百景「日本橋雪晴の朝」など傑作が多い。また、江戸の頃の雪見の名所を紹介した「江戸名所花暦」冬の部には、墨堤、深川、上野不忍池、湯島、日暮里道灌山、飛鳥山、愛宕山など眺望の良い比較的小高い場所が選ばれている。雪見は江戸期になって、庶民の中でも一般的になり、家の中で雪見酒と洒落たり、酒を入れた瓢箪を腰にぶら下げ、野山に出掛けて行った。「いざならば 雪見に転ぶ ところまで」笈の小文。芭蕉のこの句碑は向島長命寺境内に、大田蜀山人や十返舍一九の狂歌碑と並んで建っている。桜餅で著名な(HP江戸の櫻で詳しく紹介予定)長命寺は元和元年(1615)創建された天台宗延暦寺の末寺、寺名の由来は三代家光がこの地で鷹狩り最中に俄に腹痛に見舞われたが、境内の井戸水で薬を服用した処、痛みが治癒したという故事からきている。隣の広福寺(布袋尊)とならんで、ここは弁財天、向島七福神が祀られている。墨堤は上流の木母寺から墨田村、寺嶋村、小梅村と続き、田園情緒豊かな江戸の別荘地であった。冬の雪見から桜、蛍、月見、虫聞き、紅葉と四季に恵まれた恰好の江戸粋人、庶民の遊び場であった。花暦の言葉を借りるなら「この辺に斗(たたずみ)て左右をかえり見れば 雪の景色いわんかなし」といった絶景であった。

 また、同じく花暦の言葉を借りると、南の芝高縄では「この海岸線の酒楼より海上を望む様は、雪の粉々たるありさま、他に比する処なし」と形容している。「高輪」は江戸湾を望む台地沿いの道を「高縄手道(高台の真直ぐな道)」と呼んだ事からこの名がついた。縄手というのは、古代条里制の用語で、田圃の畦道を作るのに、縄を張って測り区画していた事による。東海道の入り口として設けられた「高輪大木戸」は、日本橋から約一里半の道程にある。当初芝口門にあったが享保9年(1726)品川宿より半里手前の現在地に移転している。ここより先は芝車町(牛町)文化3年(1806)ここから発生した火事は丙寅の大火と呼ばれた。その前年に描かれたのが日本橋繁盛絵巻「熈代勝覧」である。右手坂上は赤穂浪士が眠る泉岳寺である。江戸期の海岸線は現在のJR線とほぼ一致、品川宿の人達は明治5年の鉄道開通に反対、駅を宿場の北側にもってきた。為に現在の品川駅は品川区ではなく、港区に立地している。「芝にありこの山上より雪中に見下ろせば、遥かに安房、上総の山々片たるうちに見ゆ」とされた「愛宕山」は図絵によると「懸岸壁立して空をを凌ぎ、六十八級の石階は畳々として雲を挿むが如く」としている。「あたごやま、あたごさん」は、家康が火伏せの神社として祀り、標高25.7m、23区内では、自然地形で山と呼ばれるものの中では、最高峰とされるが、江戸西半分は標高30mを越す「武蔵野台地(練馬区の南西端は約58m)」である。正面の男坂は86段、傾斜40度ある。寛永11年(1634)讃岐丸亀藩、曲垣平九郎が三代家光の命に応え、石段を馬で駆け抜け、山上の梅の枝を採って戻って来たという「寛永三馬術」に因み、出世の階段と呼ばれるパワースポットである。その後、現在まで三度成功している。「神田上水」の水源地、「井の頭池」は三宝寺池、善福寺池と共に武蔵野三大湧水池と呼ばれ、ここには七っ水源があったとされ「七井の池」と呼ばれた。家康の命を受けた大久保五郎忠行は、水源などを調査、掘割、江戸初期には市民の上水網、神田上水となっている。江戸期は将軍の鷹狩り場、市民にとっては弁財天と共に行楽地となり、池の冬景色は広重の「名所雪見花 井の頭池 弁財の社雪の景」となっている。最後の雪見は「上野無縁坂」、池の端1丁目から湯島4丁目に上がる坂の横にあった無縁寺(講安寺)が此の坂の名の由来である。無縁坂を題材として明治の文豪、森鴎外が名作「雁」を書いている。昔、ここから眺められる不忍池の雪景色が素晴らしかったという。無縁という言葉には、色々な意味合いがある。人間界では自分には関係のない事柄を指したり、此の世に血縁、地縁などの縁者がいない者を指す。一方、仏教界においては、自分の置かれた環境、条件に関わらず、また、相手が誰であろうと差別しない、誰の為であるという事柄からも抜け出した、平等な心、仏の絶対の慈悲の境地を示しているのが「無縁」という言葉である。相手の人に依る差別、境遇に依る差別、立場に依る差別が無いのが「無縁の世界」である。此の世の人間は、常に損得が絡み、雪のようにさらりといかない。単独では黒くはなれない塊人間が多くなってきた。「仏の顔も三度まで、地獄の閻魔は一度きり、死に急ぐ三途の川もセキュリティ、差別を背負った人間は閻魔様でも受け入れない」世の中 ぼ~と勝手にやっていると、何処も行けない地縛霊となるから大変だ。   江戸純情派「チーム江戸」

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