<江戸花暦>春は名のみの「江戸早春賦」①梅の花
<江戸花暦.>暦の上では弥生3月の6の日は、すごもり虫 戸をひらく「啓蟄」となり「陽気地中にうごき ちぢまる虫穴を開き出ればなり」となる。彼岸の入りから21日は春分。七十ニ候では、3月11日が「桃始笑」26日は「桜始咲」。桜の開花は地球温暖化のせいで年々早くなり、2024年は入学式ではなく、卒業式の季節に早くも咲き始める予想となっている。桃は桜より若干早く咲く事が多く、枝の節に花が二つずつ、花と枝が直接くっつくように密集して咲くが、桜は枝から房状に花がつき、「三日見ぬ間の桜かな」とその開花期は短い。
<梅>春は名のみの風の寒さが続く如月、2月4日の節分、立春が過ぎたとはいえ、まだまだ1日の最高温度が10℃前後「春は名のみの今日この頃や」である。この冷たい風に立ち向かい、数ある木々の中でもいち早く春を告げ、香り高い花を咲かせるのが梅の花である。このことから梅には「春告草」「好文木」「木の花」の名もある。梅はバラ科サクラ属の落葉高木、中国が原産地。日本へは弥生時代のAⅮ3thからBC3thに朝鮮半島を経て、もしくは遣唐使が持ち帰ったものとされている。梅という言葉の語源は、中国語の梅(マイ、メイ)を日本語的に発音してウメとした説、また韓国語のマイが転訛した説などがある。江戸の頃、川向うの本所の小梅村を、村の古老たちは「コンメ村」と呼んでいた。古来日本人は meをnnme(ンメ)と発音する習慣があった。我が国における収獲ナンバー1は紀伊半島和歌山県、国内生産の6~7割を占め、田辺市みなべ町がその約7割を占める。名品「紀州南高梅」は果肉が厚く柔らかく、種が小さいため梅干しの生産に適している。「桃栗三年柿八年 柚木の馬鹿めは十八年 梅はすいすい十八年、梅を喰うとも核喰うな 中に天神寝てござる」果肉を食べた後に残る種は「天神様]と呼ばれた。
学問の神菅原道真を祀る天神様とは、本来国津神(地上にいる神)に対する天津神(天にいる神)のことを指し、特定の神の名称ではなかった。しかし、道真が「火雷天神」と呼ばれるようになると「天神信仰」となっていった。江戸天保年間(1644~47)太宰府天満宮の神官を務めていた道真の子孫・信祐は、この天神信仰を広めるため全国を行脚、下総国本所亀戸村にたどり着き、飛梅で掘った天神像を奉祀、これが亀戸天神社の,始まりとされている。明暦3年(1657)明暦の大火が発生、4代家綱は本所の復興の象徴として、現在の地に社地を寄進、墨東地域の鎮守として、太宰府天満宮に倣って社殿を道営させたのが、寛文元年(1661)のことである。当時の亀戸は湿地帯、信祐は水を好む藤の樹を社殿前に植えたのに始まり、境内の心字池を中心に約100株、15程の棚が造られ、ここが藤の名所になるきっかけとなった。なお、辰巳の芸者衆が、心字池に架かる太鼓橋に似せて結んだ帯の形が「太鼓結び」の由来だとされている。また、北十間川沿いの梅屋敷は「清香庵」と呼ばれ、ここの光圀が名付け、8代吉宗も訪れたという「臥龍梅」が有名であった。広重が「名所江戸百景」でこの梅を描き、それをゴッホが油絵とし、この梅は世界的に有名となった。しかし、明治43年、荒川の氾濫により冠水、大正時代に枯れ死してしまった。
天神様の行事のひとつに、文化3年(1820)正月から始まった(現在は1月24、25日)「うそ(鷽)替え神事」がある。「ウソ」という鳥を型取った木彫りの鳥を、正月に新しいものと変えると、昨年の悪いことが嘘となり、吉事に変わるとされる。ウソという鳥は太宰府天満宮の祭りの際に、害虫を駆除したとされ、また、「鷽」という字が「學」に似ているため、学問=天満宮の祭事になったといわれている。さて、天神様といえば、名物船橋屋のくず餅、小麦殿粉を蒸したものに黒蜜をかけ、黄な粉をまぶしたくず餅は「大江戸風流くらべ」の江戸甘い物番付で、横綱に格付されていた。さて、梅に先駆け12月から2月頃に咲く花に「蝋梅」がある。なかなか味のある渋い花をつける。梅とは類似点が多いが梅はバラ目、蝋梅はクスノキ目ロウバイ科、系統的には別の種類である。梅と同じく中国原産、あちらでは火傷の薬としても使用されている。和名の蝋梅の語源は、陰暦12月にあたる臘月に、梅の香りをする花を咲かせることからきたという。また「本草綱目」では、花びらに半透明の黄色の鈍い艶があり、蝋細工のようであることからこの名があるとされている。増やすには一般的には挿し木だが、晩秋に茶色の種をまき、5㎜程土を被せておくと春分には発芽する。
<初午>古来江戸に多きものとして「伊勢屋稲荷に犬の糞、京は地蔵で江戸なら稲荷、火事と喧嘩は江戸の華、そのまた華はまち火消し」が定番であった。江戸下町は埋め立て地,大地の神である稲荷を祀り、土地の安全を願った。元々は農業(田)の神であり、農家であれば五穀豊穣、商家であれば商売繁盛、個々の人であれば「開運」「来福」「健康」を願って、江戸府内武家屋敷から九尺二間の長屋の奥にまで、約5千余の稲荷神社が祀られていた。全ての稲荷社は朱色の鳥居と伽藍が定番、そこに「正一位稲荷大明神」の幟が翻っていた。また、稲荷神の眷属(けんぞく、使い)狐は黄色であり、陰陽五行説の木火土金水の五色のうちの土色(黄色)であるため、中国では狐は農村で土を豊かにする神として信仰され、それが我が国に伝えられ、稲荷信仰として定着していった。2月の最初の午の日を「初午」という。赤飯や御神酒と共に、狐の好物だとされる油揚もお供えする。和銅4年(711)京都伏見稲荷大社に「宇迦之御魂大神」が君臨したのが2月11日だとされ、この日が初午であったことから、この日が祭りになった。
江戸の稲荷信仰は明和・安永年間(1764~80)頃から盛んとなり、江戸で知られている稲荷社は赤坂の豊川稲荷。他方、石神井川沿いに祀られる「王子稲荷神社」は、東国33国稲荷神社の総元締めで、毎年大晦日になると境内の装束榎に狐たちが集まり、装束を改め官位を決める会議が開かれた。当時の東国とは近畿以東、東北までを含む地域を指した。また、ここでは初午の日には凧市がたち、凧は風を切ることから、火伏の御利益があるとされ「火事と喧嘩は江戸の華」と揶揄されるほど、火事が日常茶飯事であった江戸では、王子稲荷で売られる凧は、火伏の縁起物として求められた。一方、湯島天神近くの「妻恋稲荷」では、初午のこの日、狐憑きから免れるお守りを頒布した。その頃、まだ多くの狐たちが生息していた江戸府内ならではの御守りであった。また、初午を祝うこの日は、。江戸の子供たちが読み書き、算盤を習う寺子屋の入門日となっていることが多かった。文化2年(1805)に描かれた、日本橋繁盛絵巻「熈代勝覧絵巻」では、文机を担いだ父と男の子が何となく面倒そうに歩いている姿が描かれているが、この子もこの日が塾の初入門日であったのであろうか。
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