「吉原細見」②京町1丁目 三浦屋高尾

 新吉原京町1丁目三浦屋に伝わる名跡「高尾太夫」は、京島原「吉野太夫」大坂新町「夕霧太夫」と並ぶ「寛永三名妓」の一人である。高尾太夫は新吉原の太夫のなかでも筆頭ともいえる源氏名で、11代続いたというのが通説となっている。なかでも2代目「仙台(万治)高尾」、5代目「紺屋(駄染)高尾」、6代若しくは7代目とされ、播磨姫路藩主に落籍された「榊原高尾」たちの文献が多い。他にも自分の子を乳母に抱かせて花魁道中をしたという「子持高尾」もいる。この名跡も11代目になって、寛保元年(1741)に落籍された太夫が廓を出る際の行動が物議を醸し出したとされ、以来この名跡は廃止となったと云われる。しかし、文芸や映像の世界では、文化文政期(1804~29)の遊女装束の高尾太夫が多く登場しているが、三浦屋は宝暦年間(1751~63)に廃業している。また、同時期に新吉原では太夫職も消滅しているため、これらの作品は時代考証の点ではそぐわないものとなっている。また、花魁という呼び名は、宝暦以降の高級遊女に対してのものであり、太夫を花魁と混同して、表現するのは誤りとされている。因みに花魁という呼称は見習といえる子供「禿」たちが、先輩の遊女たちを「おいらの姉さん」と呼んでいた事から始まったとされているが、このお姉さんたちが引出茶屋まで馴染みの客を迎えに行くのを「花魁道中」といった。遊女たちは前回紹介した「勝山」が考案した「外八文字」の作法で禿たちを従えて悠々と迎えにいった。また、それ以前の太夫と云う語源は室町時代に遡る。猿楽を演ずる役者たちが、朝廷などに呼ばれた際、バランスを取るためにその者たちに、一時的に五位相当の太夫の位を与えたのが始まりとされている。これに倣い公家に召された遊女たちも、太夫の扱いを受け「○○太夫」の呼び方が一般化していったという。江戸町歴代太夫たちは不本意ながら18歳で身を沈め、その先の人生も千差万別であった。信濃国善光寺に「高尾灯籠」と呼ばれる巨大な石灯籠がある。これは江戸浅草三浦屋楼主四郎左衛門が、遊女高尾を供養するために建てられた灯籠であるとされている。

 歴代高尾太夫たちが、朋友たちと苦楽をともにした三浦屋は、新吉原京町1丁目にあった。両国橋西詰に注ぎ込む「神田川」に架かる第1橋梁「柳橋」から、猪牙舟に乗り大川を北へ上ると「首尾の松」が左手に見えてくる。心の中で今回の段取りを考えるていると間もなく駒形堂、浅草寺の大屋根の裏手が「山谷堀、竹屋の渡し」である。「旦那 つきやしたぜ」と船頭に声を掛けられて、日本橋の若旦那は船宿に上がり、着替えて「日本堤」の土手路を急ぐ。江戸幕府は大川の下流、将軍様のお膝元江戸府内を護るため、浅草側に日本堤を、本所側に「隅田堤」を逆八の字、ロート状に築堤した。早い話が大雨、洪水から江戸御城下町を護るために、堤以北に溢れた水を貯め、そこに住む住民たちや土地を犠牲にしたのである。江戸下町に存在した多くの河岸地は、そのおかげで高潮の心配もなく成り立っていたのである。山谷堀は狭義には今戸橋から日本堤までの堀割りで、元々は王子の音無川(旧石神井川)から根岸、箕輪(三ノ輪)を通り、隅田川に注ぐ水路であった。かっては「よろず吉原 山谷堀」と呼ばれ、山谷堀は江戸名所のひとつであったが、維新となり遊興の地が、薩長好みの新橋方面に変わると、急速に衰えていった。広重「名所江戸百景」第八十四景「待乳山山谷堀夜景」は、三囲神社がある対岸からの夜景で、対岸に描かれた堀が山谷堀、緑の丘が待乳山、遊女とおぼしき女性の後ろに、窓の灯りが見ることができるが、左側が船宿「たけや」の、その右側が料亭「有明楼」の灯りである。話はそれたが、堤を急いだ若旦那は程なく「見返り柳」に着く。この先が「衣紋坂」である。遊郭への客たちが遊女に会う前に、見映えを良くしようと襟を正したという衣紋坂が、ダラダラと左右に屈曲しながら上っているのは、新吉原の唯一の出入口「大門」から廓の内部が、外の世界から見えにくくするために、幕府が考えた方便であるという。こうした次第でやっとこさ若旦那は大門に着いた。

 人形町「元吉原」から明暦3年(1657)後移転してきた、新吉原の廓は夜営業が認められ、規模は以前の1,5倍、女郎たちの逃亡を防ぐため、周りは高い塀に囲まれ、更に3間(1間≒1,8m)程の「お歯黒どぶ」に囲まれていた。故に遊郭は「囲まれ地=廓」と呼ばれ、「遊郭」とは、幕府が公認した遊女が金銭的収入を目的として、営業定住した地域を指すとされた。大門を入ると中央に「仲の町」通りが伸び、その奥突き当りが「水道尻」日除けの神様である秋葉権現が祀られていた。春になると咲きかけた桜の木が植え込まれ、一夜にして「花の吉原」となった仲の町通り右側手前から、江戸町1丁目、揚屋町、三浦屋があった京町1丁目と続く。通りを挟んだ反対側は伏見町、江戸町2丁目、角町、京町2丁目と続いていた。それぞれの町のお歯黒どぶ側の河岸には、花の吉原の陰の部分である、若さを失いお茶を引くようになった女郎たちや、岡場所から摘発されてきた女性たちが集められていた。右側が「西河岸」左側は「羅生門河岸」と呼ばれた。次回「吉原細見」は2代目「仙台高尾」の真偽に迫ります。   <チーム江戸>

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