督姫と小田原征伐 ➁名胡桃城
小田原征伐の誘因となった名胡桃城は、越後国と上野国を結ぶ線上、利根川と赤谷川の合流付近(群馬県利根郡みなかみ町)にある。西へ進めば信濃国である。三方が絶壁となっている天然の要塞に造られた山城であった。この名胡桃城を囲むように小川城、明徳城i沼田城といった北条方の城があり、名胡桃城は北条の領内に楔を打ち込むように建っていた。故に北条側にしてみれば、自分たちの領内に敵の城が存在していると云う認識であった。名胡桃城は武田勝頼が真田昌幸に命じて、敵対関係となった北条氏から沼田城を奪取するため、前線基地として築いた城である。
天正10年(1582)「天正壬午の乱」を経て独立した真田昌幸と北条氏は戦った。同15年天下を取った秀吉は、大名間の私闘を禁ずる「惣無事令」を発令、同17年、沼田領に関しては、昌幸が「祖先墳墓の地」として主張した、名胡桃城を含めた1/3を真田領に、それ以外の沼田城を含む2/3を北条領と定めた。7月、真田側には手放した土地の代替地として、信濃国箕輪が与えられた。秀吉に臣従した徳川、北条、真田各家はこれに従った。ところが11月3日になって、沼田城代猪俣邦憲が真田の名胡桃城代を、偽の書状を使って上田城に呼び寄せ、そのスキに名胡桃城を奪い取ってしまうと云う事件が起きた。この事件は猪俣の単独行動か北条側の指図によるものかは定かでなかったが、昌幸は直ちに秀吉に訴えた。自分の采配が無視され、名誉が傷つけられたと激怒した秀吉は、11月24日、北条氏との手切れ書を全国の諸大名たちに送付、北条5代氏直に5ヶ条からなる最後通牒を送った。「北条軍、近年公儀をないがしろにし上洛にあたらず、ことに関東において我意にまかせ狼藉の条是非に及ばず」と、関係者の引き渡しを求めたが北条氏側はこれを拒否した。秀吉は北条を島津や長曾我部同様懐柔による臣従作戦から、武力による断絶・滅亡の道に政策を転換、天正18年正月、全国の大名たちを動員、小田原城攻撃は開始された。
天正18年3月、秀吉は3万5千の軍勢を率いて京を出立、物見遊山の旅さながら東海道を下った。自分の勢力を世間に誇張するためであった。秀吉軍総勢21万ないし22万の大軍で小田原城を包囲、城を見下ろす石垣山に、いわゆる「一夜城」を築き城兵を威嚇、海上には毛利や九鬼の水軍が、22万余の兵糧米を沼津に搬入して相模湾を封鎖した。秀吉軍に従った家康は、3万の軍勢を率いて先鋒を務めた。対する籠城する北条の勢力は5万6千(8万説有)、一族は小田原城に入城、併せて領内の山中城(三島)、松井田城(安中)、鉢形城(寄居)、忍城(行田)などの支城を固め、秀吉軍の侵攻に備えた。かって小田原城は信玄や謙信の猛攻を跳ね除けた、難航不落の名城であるという自負が北条側にあった。また、5代にわたって関東を治めてきたという自信、奢りがあった。包囲2ヶ月が過ぎ決着の付かない戦いの中「氏直は家康の婿故に、自然城の言合之有」と、家康が氏直と内通しているのではないかという憶測も流れ始めたが、領内の支城(忍城は姫たちの落城第3章甲斐姫を参照)が次々と落城し、仙台藩の伊達政宗が秀吉に帰順し後ろ盾がなくなり、叔父の氏照の居城八王子城が陥落すると、7月5日当主氏康は城を開城して降伏した。小田原戦役は終わり、伊勢新九郎から5代にわたり関東を統治した北条氏は滅亡した。家康は秀吉から、昨日まで治めていた先祖代々からの三河、駿河、遠江、信濃、甲斐を離れ、北条氏の旧領=関八州に入封することを言い渡された。家康は故郷に凱旋することなく、八朔にあたる8月1日関東に討ち入り(入府)した。北条氏が滅亡すると沼田領内の全ては昌幸に安堵された。焦点になった名胡桃城は廃城となった。実際に使用されたのは10年間のみである。近年、地元月夜野町教育委員会の調査によると廃城になった後、殆ど改変を受けていないため土塁や石垣、堀割りなどは殆ど築城当時の遺構が比較的良好に残されていると云う。(JR上越線後閑駅徒歩約30分)
孤立した小田原城は遂に陥落、秀吉に臣従することを良しとしなかった父氏政と叔父氏照は自刃した。督姫が嫁いだ北条氏直は義父家康の助命嘆願で、一命を助けられ高野山に配流された。しかしその後は解除され、賄領1万石を給され徐々に格式も回復しつつあった最中、天正19年痘瘡にに罹患して亡くなってしまった。まだ30歳の若さであった。氏直と督姫の間には男子がいなかったため、家督は叔父の氏規に継承され、以後小田原北条氏は12代にわたり河内国狭山に在封、明治維新を迎えている。督姫は城も失い夫も失い、落胆のままに父家康のいる江戸へ帰っていった。文禄3年(1594)秀吉の肝いりで三河吉田城主池田輝政に再婚した。当初、秀吉は輝政には浅井三姉妹の3女江を嫁がせようと考えていたが、家康のたっての要望で督姫が行くことになったという。江は翌年、家康の3男秀忠に再々婚で嫁ぐことになる。輝政と目出度く再婚した督姫は、夫婦仲良く5男2女をもうけた。またもや政略結婚でありながら、2度目の結婚でやっと幸せな妻、母を演じていた督姫は、慶長20年(1615)父家康と会うために滞在していた京二条城で、疱瘡に罹りそのまま亡くなってしまった。41歳とも51歳とも云われる。姫たちの落城次回は全国の城を訪れ、究極の人生を経験した姫たちに迫ります。<チーム江戸>
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