「姫たちの落城」第5章 家康の次女督姫と小田原征伐 ①後北条五代
天正10年(1582)「本能寺の変」が起き、信長が高転びに転んだ後、甲斐国や信濃国は北条氏、徳川の領土争いの戦場となっていった。これを「天正壬午の乱」という。翌11年、甲斐と信濃を徳川領、上野国を北条領とすることで双方は和睦、この証として家康の次女督姫(良正院)が、小田原北条氏5代目氏直の正室として嫁いでいき、2人の娘を産んだ。督(実名ふう)の母は家康側室西郡局である。小田原北条氏は5代にわたって関東を治め、初代早雲(伊勢新九郎)、2代氏綱、3代氏康と名将を輩出した。小田原北条氏の祖早雲は、存命中は伊勢新九郎を名乗った。「伊勢氏」から「北条氏」を称するようになったのは、2代氏綱になってからである。鎌倉時代の執権北条氏とは、何の系譜のつながりがないのに関わらず、新しい氏として北条の名を選んだのは、執権北条氏の当主が、武蔵の国の受領名を名乗っていたからだという。また、氏康から名乗った受領名「相模守」は、鎌倉北条氏が歴代名乗った古例を踏襲したものである。武蔵の国統治の整合性を得るために、2代氏綱がとった壮大な戦略であり政策であった。伊勢から北条への改姓は、氏綱の関東を支配していく強い意志の表明であった。その後、鎌倉執権北条氏と区別して、小田原北条氏、後北条氏と呼ばれるようになる。
小田原北条氏の祖、伊勢新九郎の出仕は備中伊勢氏、足利義政に仕えた後、文明11年(1479)48歳で兵を起こし、駿河国の守護大名今川氏親を援け、伊豆に所領を与えられた。文書での「伊勢新九郎盛時」の初見は文明3年(1481)であり、戦国武将として世に知られるようになった。この時50歳である。人生50歳の時代、新九郎はいまでいう「大器晩成型」新しい人生の始まりであった。明応2年(1493)58歳の時に堀越御所を攻撃、この事件を「伊豆討入り」といい、東国戦国時代の始まりと云われ、戦国時代は新九郎の「下剋上」から始まったとされる。翌3年、相模国侵略が始まる。千頭の牛の角に松明を灯し小田原城に迫り、4年、大森氏を追い小田原城に入った。木曽義仲の倶利伽羅峠版を思わせるような作戦であったが、実状は「明応地震」の際の土石流の発生や、津波に乗じた作戦であったという説もある。この年新九郎60歳、出家して「早雲庵宗端」を名乗る。永正6年(1569)以降、新九郎の今川の武将としての活動は余り見られなくなり、江戸城攻撃など相模国武蔵国進出に力を注いでいった。新九郎が伊豆の国韮山城(伊豆の国市)に居城を移して、伊豆の国の統治を始めた時点で、税制を改正し租税を「四公六民」とし、また、虎の印判状を用いて、印判状のない徴収命令を無効とし、郡代、代官による百姓や職人への無法な搾取を禁止するなどの善政を敷いた。これらの政策により伊豆一国は30日ほどで平定されたと云われる。永正15年(1518)家督を嫡男氏綱に譲り、翌16年、斎藤道三と並ぶ戦国時代の梟雄、北条早雲は韮山城で亡くなった。享年88歳の長寿であった。菩提寺は氏綱が創建した「早雲寺(神奈川県箱根町)」である。因みにJR小田原駅西口ロータリーに早雲の騎馬像がある。「火牛の計」をモチーフにしたこの像は、高さ5,7m、重さ7㌧の日本最大級の銅像となっている。
2代氏綱は父の意思を継いで関東支配の礎を築き、武蔵、駿河など東国の盟主となっていった。3代氏康は天文15年(1546)「川越合戦」に勝利することで、山内、扇谷の両上杉家を排除、その勢力範囲を上野国(群馬県)まで拡大した。また、小田原を城下町の形態に整え、政治、経済、産業、文化の中心として繁栄させていった。4代目氏政は永禄4年(1561)上杉謙信の軍勢を、同12年(1569)武田信玄の軍勢を、それぞれの「小田原城攻め」を撤退させ、関八州を治めるようになった。この成功経験が天正18年(1590)秀吉の小田原城攻略にかぶってくる。こうして氏政は関東の経営に邁進するあまり、天正10年に信長が「本能寺の変」で高転びに転び、それを上手く取り込んだ秀吉の台頭により、天下取りが秀吉に収れんしていく、戦国時代の急激な時代の変化を読みとれなかった。それまで戦国時代の乱世を生き延びてきた後北条氏は、戦略の面で氏政の代で一気に老化していた。先祖代々からの一族経営の老舗大企業が、何の戦略もうちだせず新興の企業にマーケットを奪われ、衰退していくのと同じ現象であった。小田原城や関東の支城だけでは護り切れない波が押し寄せて来ている事態を、氏政、氏康、一族は読み取れなかった。彼らにとって秀吉の小田原攻撃は想定の範囲外であった。氏政についてのエピソードがある。ある時、一杯の飯を食べるのに、2度も汁をかけ直した。それを見て父氏康は「一飯にかける汁の見積りもできぬようでは、戦いにおいて先の見通しもたてまい」と、北条家の将来を危ぶんだという。
当初、氏政、氏康父子は信長と友好関係にあったが、信長の死が伝わると関東管領として厩橋城にいた滝川一益を、「神流川の戦い」で攻め敗走させた。甲斐、信濃、駿河の領有を争っていた家康と同年10月和睦、氏康は家康の次女督姫と婚姻関係を結び、秀吉の再三にわたる上洛催促を無視した。家康や政宗と与み秀吉に対抗しょうと考えていた。一方、秀吉の方は懐柔によって無駄な戦いを避け、徳川、島津、長曾我部らと同様に、北条を臣従させ全国統一を狙っていた。天正16年(1588)出仕しない氏康に対し秀吉は家康に「惣無事」政策の執行責任を負わせた。これに対し氏康らはのらりくらりと返事を先延ばしにした挙句、小田原城の大規模修繕工事に取り掛かった。城下町や周辺の田畑を取り込んだ総延長9㌔に及ぶ惣構えである。秀吉の大軍に包囲されても数年は持ちこたえる構えであった。こうした態度に業を煮やした家康は、5月中に氏政、氏照兄弟に上洛を求めた。それが嫌なら氏直に嫁がせた督姫を即時戻せと、徳川、北条の同盟破棄を突き付けた。北条側はこれには流石に、一族存続の危機を感じて和睦を決意した。8月叔父の氏照が上洛、秀吉はこの上洛をもって北条側が「関東惣無事」を受けたものと判断、領国境目の策定に着手した。次なる焦点は上野国沼田領の処遇であった。秀吉が下した裁定は沼田領の2/3を北条側に、1/3を真田側に割譲するものであった。この決定を踏まえて北条側に沼田城が引き渡され、氏政が上洛すれば、対小田原攻略は無事終わるかに見えた。しかし、天正17年、北条の家臣、沼田城代猪俣邦憲が突如として真田昌幸の属城「名胡桃城」をだまし盗る事件が発生した。これは猪俣の単独行動か北条側の意向は定かではなかったが、秀吉はこれを大名間の私戦を禁ずる「惣無事」に抵触する行為であると断定、北条家を武力で滅亡させる戦略に方向転換した。 次回「姫たちの落城」第5章 督姫と小田原征伐はその名胡桃城が舞台です。乞う御期待。 <江戸純情派 チーム江戸>
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