5 天明の大飢饉と石川島人足寄場

 飢饉とは自然災害のため食物が得られず、多数の人々が飢えに苦しむ社会現象を云う。江戸時代を通して大小合わせて35回発生、そのうち大飢饉と云われるものは寛永、宝暦、享保、天明、天保年間に生じた。天明3年(1738)4月9日、信濃国(長野県)軽井沢と上野国(群馬県)嬬恋村にまたがる浅間山(2568m)が大爆発を起こした。火砕流は山の北側に流れ出し「鬼押し出し」を造り、軽井沢では186軒のうち51軒が焼失、65軒が大破した。空高く吹き揚げた噴煙は偏西風にのり太陽光をさえぎり、東北地方は6年間にわたって日照不足からくる凶作にみまわれた。長期にわたる日照不足は北半球反対側の欧州にまでも及び、フランスではアイスランドの火山噴火と合わせた日照不足から小麦の凶作となり、1789年7月14日の「フランス革命」に結びついたとされる。同じ年4月20日、アメリカでは初代大統領にワシントンが就任、世界は民主化の流れに向かっていっていた。さて、我が国の冷害に伴う餓死、病死者は、弘前藩で凡そ8万人余、津軽藩では10万人余に達した。東北地方の農民たちは米はもとより粟、稗、里芋などの救荒米を食べつくし、来年度植える種米までにまで及んだ。それでも飢えは満たされず、木の芽、草の根、虫などの口に入るものは何でも口にした。「天明の大飢饉」(1782~87)による全国の餓死者、病死者は数十万人に達した。冷害からくる凶作で各藩で百姓一揆が頻発、江戸、大坂などの都市部では打ちこわしが発生、各国からの無宿人、無職人≒犯罪予備軍が、町に流れ込み治安が悪化、町は無法地帯化していった。(池波正太郎 鬼平犯科帳)江戸幕府は米価の安定に努め、故郷の田畑を捨て家族と離れ離れになり、江戸に流れ込んできた人々の救済にあたった。

 寛政元年((1789)火盗改めとして江戸の治安に勤めた旗本長谷川平蔵宜以は、老中筆頭松平定信に建策した。「猛欲無道の者たちですが その10人うち5人を善に帰すのはさほど難しくないでしょう」と、隅田川下流の三角洲、兜島、森島と呼ばれた「石川島」と、正保元年(1644)に築島された「佃島」の間の沼地1600坪を、対岸隅田川右岸にあり新吉原を凌ぐ歓楽街であった「中洲」の土地を取り崩して埋め立てた。因みに石川島は宝永2年(1705)、御船手方奉行石川八左衛門が拝領以来この島は石川島と呼ばれる。当時江戸は八丁堀と三十三間堀が南限、築地、明石町はまだ水の中であった。寛政2年、この地に江戸に流れ込み「無宿人」「犯罪予備軍」となっている人々の拘留、更生を目的として、福利厚生、職業訓練施設を築き上げた。無宿人とは「人別帖」に載っていない人間である。戦国時代頃から領主が所有地の農民を把握するために調査、これが江戸初期になって大規模となり、戸籍簿の整理と人口調査につながった。寛文年間(1661~72)からは旦那寺(菩提寺)が犯罪と切支丹の防止を目的として、旅へ行くには往来手形をもらうこと、勘当されると人別帖から外されるとした。つまり土地を地図で区別するならば、人間様を寺を一単位として人別帖で把握、区別したのである。

 寛政2年に幕府から米700俵、金500両が給付された。正式な開設日は2月28日、20人の人足を収容した。4月からは本格的な収容が始まり、寛政年間(1789~1800)130人前後、天保13年(1842)430人、弘化2年(1845)には500人余りにと増大した。平蔵は石川島に「人足寄場」を造り上げるにあたって、①逃亡防止を目的とした広大な土地、飲料水が確保出来、船便がよい土地を要望した。この結果が石川島寄洲であった。佃島の住民にも埋め立ての応援が要請され、用地が整備され井戸なども掘られた。湊町との渡船場も整備され、杉の廃材を利用した渡船も3艘建造された。➁次の課題が人足の規律、使役の問題である。幕府の最終決定は人足たちは課役とし、収容期間は3年3ヶ月、品行方正、優秀な者はこれを問わずとした。職業訓練科目として紙すき、屋根葺き、炭団作り、大工、左官など、女性向けには裁縫などを教えた。尚、重労働にあたる鰯の油絞りは天保2年(1831)採用、年間800両の売り上げをあげた。この純利益で建造されたのが現代ではレプリカであるが六角二層の常夜燈「石川島燈台」である。品川沖から江戸湊へ入津する下り船を無事湊へ誘導した。また、幕府は「元手の制」を取り入れ、これらの課役に対する報酬を1日400文から千文と有償とし、幕府がこの半分を預かり、退所する際の自立金、生活準備金に充てるように指導した。更に、出所した人たちの就職の世話、借り店の保証人まで幕府は引き受けた。一方で幕府は寄場入墨を採用、お仕着せ(制服)は柿色地に白い水玉模様とし、入所時は水玉の数が多く、次第に大きく数が減り、差配人は模様なしとした。(山本周五郎 さぶ)尚、更生制度として、月に3日の休みを「心学」の講義に充て、庶民的な道徳訓話を開設、退所に向けての準備とした。単なる課役とは異なった、罪に対する根本的な発想の違いを入所した人間たちに考えさせた。現代にも劣らない発想で運営された「石川島人足寄場」であったが、安政3年(1856)8月、大津波に襲われた。寄場奉行は70人を残して島の防災に当たらせ、残り全員を解放した。伝馬町牢屋敷の火災時における方策と同じである。解放された人足寄場の無宿人たちも後日全員戻ってきたという。(松本清張 海嘯)現代よりも先駆けた一級の更生施設が、江戸寛政の時代に存在していた。    <江戸純情派 チーム江戸>

 

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