<人之巻>第5章 江戸の風景 1「浮世風呂」
新興都市江戸の町は夏は蒸し暑く、冬は土埃がひどく、特に北西の季節風が吹き荒れる、冬から初春にかけては、目から鼻から容赦なく入ってくる砂埃に、江戸っ子たちは閉口した。打ち水をしたくても水不足でそれも無理、また、火事発生を防ぐため各戸の内湯は自粛、おまけに燃料となる薪が高いときて、江戸っ子たちはこぞって銭湯通いとなった。紀伊和歌山藩医原田某の書いた「江戸自慢」によると、江戸は「土薄く水浅く湿気強し 土は灰の如くにて 雨天には泥中を歩むに異ならず(中略)晴天には風吹かぬ日はなし 強く吹く日は 土埃空に漲り 衣服足袋を汚し 目を開けては往来なり難し 江戸人の紺足袋をはき深笠を被るは 是の為の設けならむ」と江戸の町はさんざんとなる。
風呂の語源は「室(むろ)」密閉された部屋に蒸気を入れ、身体を蒸し垢を落とすもので、鎌倉時代にはこの室に身体を入れて温める湯殿があった。また、入浴する習慣は、仏教の修行「斎戒沐浴」から始まったとされ、寺には「浴堂」が設けられていた。その浴堂を無料に解放したのが「施浴」、この功徳風呂が後に湯銭をとる銭湯になったとされる。「慶長見聞録」によれば、江戸の公衆浴場としての風呂屋は、天正19年(1591)の夏に、伊勢の与一が永楽銭1枚(4文)の湯銭で、「道三堀」に架かる「銭瓶橋」畔に開いたのが始まりとされる。神田雉子町(小川町1丁目あたり)越後堀丹後守の屋敷前にあった「丹前風呂」は、室町時代に京の町に出現した湯女風呂の流れをくみ、承応・明暦年間(1652~58)には、江戸っ子たちの人気を呼び200軒余りとなった。しかし、幕府公営の廓・元吉原からの申し入れもあり、明暦の大火後の新吉原への移転の過程で廃止、そこで働いていた湯女たちは、新吉原の奴女郎に吸収されていった。この中で紀伊國屋市兵衛抱えの「勝山」は、太夫職にスカウトされ、花魁道中の外八文字を考案したり、勝山髷を流行らせたりと、当時のカリスマファッションリーダーとなっていった。
江戸の風呂は、最初のうちは蒸風呂であったが次第に温水浴に改良され、享和3年(1803)には499軒、文化5年(1808)には523軒と江戸の各地に造られていった。その呼び方は、守貞漫稿によると「京坂にて風呂屋と云ふ 江戸にて「銭湯或いは湯屋」と云ふ」江戸で銭湯と呼ばれる所以は、4文銭1枚で入れたからとか、銭瓶橋のそばにあったからともされる。尚、銭湯、湯屋の奉公人すべてを「番頭さん」と呼ぶが、一人で何役もこなしたので「三助」とも呼ばれた。その何役とは、番台、流し、湯汲み、釜焚き、木拾い、二階番等である。小正月16日と、お盆の7月16日のやぶ入りの日は「もらい湯」という。この日の売上はすべて奉公人のものとなった。このため門日の営業は休みとする銭湯も多く、奉公人たちはそれぞれの「三助の遊び」に興じた。
江戸の朝湯は、朝の七っ(am4:00)から四っ(am10:00)。その一番風呂に入り込もうと、寝間着のまま駆け出し、帯を解きながら番台を通リ、裸になって湯舟にドボンとなる。その帰りに冷酒をひっかけるのが、江戸っ子のもっぱらの愉しみである訳だが、朝湯に入るのはもっぱら男と水商売の女だけ。家庭の主婦は家事が忙しくて、それどころではない。この朝湯が無くなったのは、昭和12年の「日中戦争」が始まった年。城北地域の7区559軒が、廃止を申し合わせ、これが他の区にも反映、現在では毎年正月2日に朝湯をたてるだけになってしまった。江戸の頃、正月2日や桃湯、菖蒲湯、柚木湯など、朝風呂がたてられる日には番台に三方が置かれ、客は湯銭の他に16文(1文≒25、二八蕎麦と同値段)ほどのおひねりを置くのが習わしであった。その湯銭、時代によって変動はあるが、寛政年間(1789~1800)大人10文、子供8文、ヌカ袋4文で体を洗い、フノリと小麦粉の混じった袋はシャンプーとなった。Ⅰヶ月間通用の「留湯」券は148文であり、休業日は月1日、朝湯が終わると昼過ぎから暮れ六つ(pm6:00)頃まで営業、大晦日は終夜営業となった。
銭湯、湯屋の暖簾は紺地の木綿布、ここに「男女湯」または「ゆ」と染め抜かれていた。当初は竹竿に玩具の弓と矢を吊るし「射入る」を「湯入る」と洒落たものであった。この暖簾を潜ると「番台」、湯銭を払うと「板の間」、そこで着物を脱ぎ棄てカゴに入れる。因みに銭湯には「板の間稼ぎ」と云うのがいて、自分はヨレヨレの着物を着てきて、帰りにはちゃっかりと他人様の一張羅に着替えて帰る輩もいるため、高い良いものを着てくるのは危険である。やや傾斜した板の間が「流し場」、その先が湯が冷めないようにと入口が狭くなっている「柘榴口」。狭いため「屈み入る」から、鏡を磨く柘榴の汁がいる(必要)事から、柘榴口と名づけられたと云われる。ちょいと江戸っ子には、回りくどい洒落言葉である。その手前には「上がり湯(陸湯)」が置かれていた。陸湯(おかゆ)は貴重なため、三助から小桶に陸湯を汲んでもらった。「寒いとき 困るのは湯屋の ちっとずつ」。「湯舟」には江戸期、男は下帯、女は湯文字(蹴出し)で入浴、柘榴口の中は入込湯(混浴)であった。この禁止令が出されたのは、寛政3年(1719)松平定信の「寛政改革」である。もともと、男女の浴槽を別にするには、経費も維持費もかさむので当面は徹底されず、なかなか改善は進まなかった。文化5年(1803)の記録によると、銭湯523軒の内訳は男女別の浴槽の銭湯は371軒、混浴141軒、女性専用銭湯11軒であった。水野忠邦の「天保改革」天保12年(1841)においても禁止令は出されたが、その実施は徹底されず明治13年まで待たなければならなかった。現代では完全なる男女混浴は見当たらない。東北地方では、浴槽の湯はひとつではあるが、入口も別、浴槽も板で仕切られている。温泉地の貸し切り家族風呂だけが、おおらかな男女混浴風呂といえる。
令和3年、東京都の人口約1千400万人、風呂屋の軒数は昭和43年が戦後最多で2687軒であった。この時点で自家風呂保有率42%、約半数以下の家庭風呂の数字である。平成10年には風呂屋は半数に減り、平成20年には自家風呂が約97%に達したのを反映し、千軒を割り797軒となった。令和2年7月末の時点で460軒、ピーク時の約1/6の規模となっている。この利用客減少に反映して入浴料も上昇、昭和63年¥280だったものが、平成12年には¥400、令和元年¥470となり、令和5年1月現在ついにワンコイン¥500となり、令和7年3月時点で¥550。牛丼と肩を並べた。しかし、昔ながらの銭湯への親しみ、地方行政のテコ入れもあって、1軒あたりの入浴客数は、最悪時の120人あたりで下げ止まり、130~140人と戻ってきている。仕事を終わって温っまる風呂は、江戸っ子たちにとっても現代人にとっても、一杯の晩酌同様人生の喜びであり、1日の疲れを癒してくれる宝物である。
江戸の湯は何処でも熱い、熱くないと江戸の銭湯とは云わない。ご近所の御隠居様は、この熱い湯が大好きで、あとから入ってきた若いもんがうすめようとすると「だめだよ こんなぬるい湯をうすめちゃ、わたしに風邪をひかせる気かい」と嫌味を云われ、あえなく退散していった。令和の現代でも新参者が入ってくると、のっけから水栓を開き水をジャージャーと入れ始める奴もいる。それを見つけた番台のおばさんは、仕事上男湯に入って来て「駄目だよ 水止めな。ウチは熱い湯が自慢なんだからね。これで入れないならさっさと帰んな」と啖呵をきられる。江戸まさにここにあり。聞いていても、胸のすくような啖呵が飛んでくる。熱い湯を浴びて、冷たいビールを飲む爽快感がここにもあった。
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