江戸の風景 2「浮世床」
江戸の銭湯を舞台に庶民生活を描いた人情話「浮世風呂」に続いて、日本橋本町二丁目に小間物屋を開いて「江戸の水」などを売っていた戯作家式亭三馬は、店番の傍らに髪結いを舞台にした「浮世床」も世に出している。江戸の町そのものが土埃がひどく、おまけに厄介な名物、火事に加え高い薪代節約の為、銭湯は働く江戸っ子たちの人気の的であり、社交の場でもあった。湯屋の入り賃が8文から10文(1文≒¥25)に値上がった天保の頃、髪結いの値段は48~56文、当時はこの「髪結床」を「かみィ」「とこ」と詰まらせて呼んでいた。江戸時代、男子の髪型は「丁髷(ちょんまげ)」前の額と頭頂部を剃刀でそり、月代の鬢(びん=髪の毛)と後頭部の髪の毛ををひとつにまとめて、元結で結んだ髷を折り曲げて、頭頂部においた形である。この過程を賄うのが髪結い職人である。この髷は通常、頭頂に鼻の方向に真っ直ぐ結う。日本橋の魚河岸で仂く職人たちは、頭にのせた魚の鯔(いな)のような髷を真っ直ぐでなく、わざとひねらせ格好つけ粋を装った。どの時代にも「他人様とオイラは違うんだよ」という伊達者、歌舞伎者はいる。彼らは鯔の背をのせたような髷をしていたため「いなせ者」と呼ばれ、「粋な深川 いなせな神田 ひとが悪いが麴町」と詠まれた。
江戸の髪結いの始まりは、家康入府の頃もしくは寛永年間(1624~44)、大高札場の側に高札を管理する役所の許可を得て作られた。その場所とは日本橋、常盤橋、筋違橋、浅草橋、麹町、芝牛町に6ヶ所である。当初は元里見家の人間の行商が多かったといわれ、現在でも上総、房州出身の人間が多い。八代吉宗の時代、町奉行となった大岡忠相は髪結いを一町に一軒という鑑札を持たせ、毎日町内の人間の月代を剃る事で、町内の人間の動向を把握するように命じた。また、一町に一軒と稼ぎの安定性を保証する代わりに、①火災発生の際には南北奉行所の書類などを、髪結いの者に安全な場所に移動させる。②出火時に限らず、橋の見廻りを常に行う事などを負わせた。この制度は、洛中洛外屏風絵でも見ることが出来る。髪結床には店舗を構えて営業する「内床」、職人が客の家まで出張する「外床」がある。内床の店舗は間口2間奥行9尺の3坪、所謂9尺2間の長屋を横に並び替えた広さで、3坪6帖程である。往来に面して腰高の油障子の引き戸を設け、戸を開けると奥行き3尺の土間、揚りがまちの上が3尺の髪結い場、更に奥の3尺には畳が敷かれ、順番待ちの客の待合室となっていた。客の中には通りを通行する若い女を見ると、からかったりする輩もいたので、彼女たちは髪結い床の前は小走りに走って通ったという。外床は、店舗を持たない髪結い職人を「廻り髪結い」という。廻る地域の縄張りが決まっていたので「場所廻り」「帳場廻り」ともいわれた。この職人の手間賃は4~5日に1回通って150~200文、八丁堀の旦那のように毎日結い直す者は、ひと月2朱≒800文であった。
浮世床を題材とした落語がある。髪結床の親方が誤って客の片鬢を落としてしまった。客に苦情を云われその言い訳をした。「片側町を歩いてください」片側町とは道路の片側が屋敷地や寺社の塀か、掘割になっている町で、道路を挟んで町が成立してない町をいう。片側町の住民たちは行き止まり感があり、生活も不便であり、治安上もよろしくなかった。江戸の町は武家地と寺社地で82~83%、残りが町人地、ここに50~60万人の江戸っ子たちが、九尺二間のお屋敷に肩を並べて生活していた。ある外人は江戸の町は庭園都市だと評したが、住んでいる日本人にすれば、通り同士を挟んで交流出来る両側町が多い下町=町人地を除いて、江戸の町は夜は暗い殺風景な町であった。髪結いの亭主はそうした殺風景な片側町を歩けばいいと言い訳した。明治維新後これが変わる。江戸時代までは、通りを挟んだ町=両側町が一つの行政区域であったが、維新後は道路に囲まれたブロックがひとつの行政区域となる。「向こう三軒 両隣」から、道路の向こうは他人様となる行政になってしまった。江戸時代の行政はこうした面では、人に優しかった。
さて、女たちは自分で髪を結うのが当たり前の時代であったが、天明の末から寛政の初め頃(1788~89年)から、遊女などが女髪結いに結わせていたのが、次第に広がっていったとされる。素人の女が髪結いをさせると、水商売の女だとか贅沢な女だと云われたので、それが聞きたくなくて、当時はこの「悪習」と云われた髪結いは一般には広がらなかった。そうした事情で女髪結い職も少なく、江戸歌舞伎・堺町近くで開いていた見世は、一櫛100文であったが、次第に同業者が増えて安くなり、30~50文が相場となっていった。月決めで2日に1回の者は金2朱(1朱=1両の1/16)から1分(1両の1/4、1両≒¥10~15万)、多くの者は5節句払いといって2ヶ月で2朱(月に10回)であった。寛政7年(1795)1月、老中松平定信は「寛政改革」を施行、一般女性の華美な髪型や服装を戒め髪は自分で結うように勧めた。次いで、天保12年(1841)12月水野忠邦が「天保改革」で女髪結いを禁止、翌13年10月これに刑罰を規定した。つまり、女性が他人様に金を払い、髪を結って貰うと罪に該当するとした。当初、女性たちはしおらしく自分で自分の髪を撫上げ結っていたが、4~5年もすると次第に需要が高まり、女髪結い職が営業を復活した。このため、幕府は再三禁止令を出したが、根絶やしには出来なかった。因みに、天保年間の湯銭は8文、髪結代は28文した。忠邦は嘉永6年(1853)江戸の町で仂く約1400人の女髪結い職に、仕立物や洗濯などの職業に転職するように斡旋したが、美への飽くことのない、探究心旺盛なUser=女性客がいる限り、出口の職人を取り締まっても所詮無駄なことであった。取り締まり役人の奥様が、女髪結い職を隠れて呼んだという笑い話もあった。幕府の規制と女性の美への追及は、永遠に対立するものであった。無理な締め付けは体制側の政治生命を短命化した。現代においても国政や地方自治体も、女性有権者を大事にしないと痛い目に会う時代である。地域ボランティア活動においても、女性たちの意見を軽んじては活動出来ない時代になっている。
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