江戸の風景 3「江戸ことば」
日本語は主として、日本民族により日本列島において、使用され発達してきた言葉である。日本人はこの言葉を、国語とも呼んでいる。尚、方言とは音韻、方法などの上で相違のある言語が、地域によって別々の別々の発達をみせ、それぞれの地域の言語圏に分かれたとみられている。方言はそれぞれの地域の言語体系が場所によって異なる時、その地域で使われる言葉を指している。我が国において、方言は場所によって異なる言語=「場所言語」を指すが、欧米などでは、社会階級、職業によって異なる言語=「社会方言」も方言という事がある。通常、言葉(意思)が全く通じない程異なる場合を、「言語」としての違いといい、少しでも通じる場合を「方言」としての違いと分けて考えられている。因みに、日本語は東日本方言(北海道、東北、関東、東海)、西日本方言(近畿、北陸、中国、四国)、九州方言の「本土方言」と「琉球・八丈方言(島言葉)」、若者共通語、首都圏方言などの、「新方言」に分けられる。
「江戸ことば」は、江戸で使われてきた日本語の方言であり、江戸弁、江戸なまり、江戸語、下町言葉ともいわれ、「山の手ことば」とともに、東京方言を構成している。江戸は元々全国の人間の掃溜め場所であり、様々な人間が生活していた。粋な江戸ことばは、それらの人間の交流=Communicationの潤滑油になっていった。江戸ことばは町人社会で使われ発達してきた言葉で、大工、左官の職人たちや芸者などの庶民が育ててきた言葉であり、べらんめぇ言葉が多く、山の手ことば、武家言葉に京ことばがブレンドしたものが多い。言語学の歴史において、江戸時代前期には江戸町人の話言葉の資料や文献は少ない。後期になって戯作などが発表され、式亭三馬の「浮世風呂」「浮世床」などが、江戸ことば研究の定番資料となっていった。現代においては、自称、他称の江戸っ子といわれる人たちは、江戸の文化、生活に誇りと愛着を抱き、江戸ことばの特徴がよく保たれてきた。
「ことば」は時代の変化ととも変わっていく。日本語を通して江戸ことばを探っていくと、奈良時代後半、中国語の梅を意味する「メイ・マア」が、日本語の「梅」となったように、中国語=唐風が日本語化=大和風したものが多い。江戸時代も次第に江戸っ子たちが自信を持ち始め、上方風から抜け出して独特の「江戸前」の文化、言葉を使っていったのによく似ている。江戸ことばが大きく分かれるのは宝暦年間(1751~63)で、ここを境に前期と後期に分けられる。前期は上方語が優勢であったが、後期になると江戸ことばは独自の言語体系を持つようになる。これは長い間、政治、経済、文化の中心が上方にあり、知識人や上流階層の間では、京阪語が主に使用されていた一方で、庶民層では関東弁(方言)が使われていたが、次第に両者が融合、新しい言葉=江戸ことばが誕生していった。
言葉は歴史や風土の関わり合いが強い。江戸ことばは話す=しやべり言葉ではないといわれる。京ことばに比べ、言葉がはしょられ、どことなくせわしく、情緒に欠けているという。互いが忙しい江戸のお店や現場、道端では、物事の伝達を速やかにするために効果があるが、江戸ことばそのものは、ぶっきらぼうで艶がない。京、奈良の言葉が、長い間、貴族や僧侶たちの間で積み上げ、磨き上げられてきたのに対し、江戸中期以降の言葉は、諸国からの武士階級、町人、土木労働者たちが作り上げていった話言葉である。こうした言葉は「口舌(くぜつ、くぜち)」といい、「地口」「もじり」ともいう「当世詞(とうせことば)」であり、通、粋の美意識が喜ばれた。返事ひとつでも「おいよ~」と簡単明瞭。味はないが、短く歯切れがよく、テンポがいいのが特徴である。
江戸ことばの特徴として「シ」と「ヒ」と「ス」が紛らわしい。東を「シガヒ」、少しが「シコシ」、潮干狩りは「ヒオシガリ」となる。自己特有な言葉に言い換える場合も多く、真っ直ぐを「まっつぐ」、入れるを「へえる、ぶっこむ」、見つけるが「めっかる」、散らすが「しっちらかす」とくる。少し下品(げびた)言葉になると、消えるが「うせる」、飲む、食べるを「くらう、やる」、叩くが「くらわす」、化粧をする事を「へんげる(変化る)」、色気話となると「ちわる」となり、男女の仲をやっかんでいう場合は、「あいつらしげりやがって、畜類(動物的)だ」と冷やかした。尚、「あたいはあんたをいっち好き」と、真面目ないじらしい江戸娘も沢山いた。江戸ことばは、地口、もじり、無駄口言葉として使われ、駄洒落で打ち解け、笑顔が生まれCommunicationの輪が広まっていった。「てやんでぇ べらぼうめ」「おととい来やがれ」などは日常的で、「親バカチャンリン そば屋の風鈴」や、(江戸の頃の二八蕎麦は、屋台に二つの風鈴をぶら下げ、その音の違いで誰の屋台かを宣伝した)「あらまチョイチョイ ゆで小豆」と軽口を飛ばし、「有難う」は「蟻が鯛なら芋虫鯨」とか、「ありがた山のホトトギス」となる。「そりゃあ汚ねえぞ」という苦情には「北がなけりぁ 日本は三角」と茶化し、スコーンと抜けた茶の笑いとした。また、江戸っ子たちには自分たちの共通の言葉=陰語を持っていた。「あいつは根生(ねおい)だ」=生まれた所で育っている地元住民Nativeだ。「甚助」=甚だしい助平。すごい美人を見かけると地女(素人)の極上=「地獄」だぁと叫んだ。江戸中期の幕臣でもあり文人でもあった太田南畝(蜀山人)は、「洒落言葉」を得意とした。「恐れ入り谷の鬼子母神」「どうでぇ有馬の水天宮」。これに合わせて、地名に結びついた言葉遊びが流行った。「嘘を築地の御門跡」「なんだ神田のお玉ケ池」「よろずよし原山谷堀」「きょうか明日香の花見時」「夜の夜中も根津谷中」「びっくり下谷の広徳寺」「酔うて九段の坂の下」など、まだまだ、あげればキリがない。また、言葉の裏に意味が隠されている場合もあった。焼き芋屋は十三里とよばれた。栗を九里に言い換えて焼き芋は「栗より(四里)旨い十三里」とした。更に、薩摩芋の産地川越が、江戸から十三里であったという洒落からもきている。
あの気難しいタイトな感じの信長でも、合戦の前には親父ギャグやダジャレを飛ばして、家臣たちの緊張を緩和したという。秀吉は尾張の百姓の生まれであるから、こうした事は無理なく出来た。幕末、江戸を火の海から救って海舟を主人公にした小説といえば、彰義隊や函館戦争に加わった、旧幕臣を祖父にもつ子母澤寛の「父子鷹」である。こうした状況からか、主人公海舟の江戸弁もぞんざいではあるが、スッキリしていて歯切れがいい。海舟が本所で剣術の師匠をやっていた頃、門弟に庶民も沢山いたため、自然と下世話に通ずるようになっていき、言葉もぞんざいになっていったという。市井の人たちに深く交わっていた、父小吉の影響も大いにあった。「これで50年、政治の飯を食ったから少しは知ってらあネ。今日いろいろ言ってくる人があっても、皆昔と同じ事サ」。また、海舟の他にも江戸弁を使った旧幕臣も多くいた。京都町奉行などを勤めた関下総守は「おらが」「おめぇを」「どういうのじゃねぇ」などを連発していたという。維新後、貴族院などを勤めた江原素六などは「おらぁ知らねぇ」「仕方がねぇ」と、実にきびきびした市井の町人と変割らないさばけた口調であったと、講演を聞いた谷崎潤一郎は記している。
在(田舎)からきた人間と、気の短けぇ江戸っ子のやり取りを、「チーム江戸」的江戸弁にするとこうなる。「はなっからおめぇさんが、しゃきと云わねぇから、こういう羽目になるんだよ」「だってそうだろ、ああだあこうだあと御託をならべるから、こちとらだって考えるじゃねえか」「とっとと決まっていりゃ、無駄な手間をかけずに済んだのよ」「じゃおめぇさん これでいいのかい、後から四の五の云わねえな。こちとらだって都合ってもんがあらぁな。いつまでもおめぇさんのああでございます、こうでございますに付き合っていられねぇのよ」「このへんでケリつけるから、後はどうなってもしらねえよ。念を押すけどいいのかい。大丈夫かい。それじゃあ あばえ」江戸っ子のお兄さん、少し苛立っているが、それでもこの在からきた人が、気になって親切に段取りを教えている状況が伺われる、江戸落語にもよく見られる構図である。
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