第6章「忠臣蔵の世界」1 犬公方綱吉と側用人吉保
「上様におかれましては戌年の御生まれの故、犬をはじめ生類を憐み給わば、徳川の御家は万代不易でございます」こんな訳の分からない論法を、いかに封建社会の江戸時代であっても、まかり通る訳がない。しかし、独裁政治の下、学問を好み、人間社会をどうあるべきかをおろそかにしながらも、自分たちは、近未来の展望に希望をもちたかった綱吉母子には、怪僧のこの言葉は、何の疑いもなく身体の中にのめり込んでいった。諮問機関の老中を退け、わが意に迎合する吉保相手では、二人の独善的な性向は、ますます増長されていった。
赤穂浪士の討ち入り事件があった元禄時代は意外と長い。貞享5年(1688)9月30日、元禄と改元され、元禄17年(1704)3月13日に宝永となる、その期間は15年と5ヶ月である。元禄時代は江戸期随一の高度成長期であった。我が国は1650年(慶安元年)から1720年(享保5年)の70年の間に、人口は約1,8倍に、米の生産は約1,4倍となっている。綱吉の度重なる寺院建築により、紀文、奈良重といったバブル商人たちが暗躍、吉保主導の下に勘定奉行萩原重秀による悪鋳により、江戸の経済はインフレ化した。拝金主義による元禄文化の仇花が咲いた。身分制では1番下である商人たちが勢力を拡大、相対的に武士階級の財政が困窮、商人の金の力に左右される社会に変わっていった。江戸の約6割の町を燃え尽した明暦の大火(明暦3年=1657)があってから、復興需要を当て込んで、地方から商人や職人たちが江戸に集まってきた。これにより先住民が売った土地を新住民たちが、居住用、店舗用、賃貸用に購入、江戸中心部の土地価格が上昇していった。現代と同様に一極集中型に動いていった。結果、家持ち町民に運営されていた町が、家守(大家)によって自治運営される、賃貸人の多い町になっていった。特に四谷、下町の神田、深川辺りが顕著であった。こうした地方から出入の多い町は、播州赤穂から江戸に移り住んできた故ある浪士たちにとって、住み心地のいい好都合な町であった。
4代家綱は延宝8年(1680)5月、世継ぎが決まらないまま40歳で死んだ。次弟綱重は延宝6年(1678)飲酒による体調不良で急死してしまっていた。下馬将軍と仇名された酒井忠清は、鎌倉幕府を倣い公家の擁立を画策した。そこで動いたのが堀田正俊である。「4代家綱の後継者は、家光の息子であり、家綱の弟である綱吉こそが正統である」と主張、家綱臨終の枕元に侍り、家綱から誓詞をとりつけることに成功した。お墨付き(遺言状)は、本人の意思がそのまま表現される。5代将軍は綱吉と決まった。忠清は失脚、間もなく失意のまま急死した。水戸光圀と共に、綱吉将軍誕生の功労者である堀田正俊は、当初綱吉を補佐、重用されたが、綱吉の性格と正俊の政治姿勢が合わず、次第に遠ざけられていった。そんな時、突然大老正俊は殿中で、若年寄稲葉正休に刺され死亡、その稲葉も駆けつけた者たちに殺されてしまう。死人に口なしでこの殺人事件の真相は、闇の中に葬られた。吉保が登用されはじめるのが、延宝8年11月である。性格がタイトな綱吉が、自分が思うままに動けない、やかましい正俊を封印するためのシナリオだったとも考えられる。まともに意見を具申する老中たちを遠ざけ、自分に耳障りがいい感触のいい人間たちを周りにおき、バリアフリーをおいて徳川の政治を仕切ろうとした。トップがこの様なスタンスに立ち、周囲の意見を閉ざす政治が、国民のための政治になる訳がない。結果、二卵性双生児と云われる母桂昌院にばかり顔を向け、自分が全国で1番親孝行な息子だと信じている、マザコン将軍が出来上がり、幕府の政治を腐敗させていった。
こうした政治体制を反映して、江戸元禄社会は甚だ非合法的な社会であった。犬達が貞享4年(1687)最初の「生類憐みの令」が施行された。犬たちが人間様を馬鹿にして、往来を肥えた体でのたうち歩き、町屋に入っては旨い物からむさぼり喰っては居眠りをする。そうした犬たちの経費を負担しているのは、その犬たちに小馬鹿にされている万物の霊長人間様であった。「生類憐みの令」は犬だけにとどまらず、あらゆる動物たちに適用され、綱吉が宝永6年(1709)1月、64歳で死ぬまで、20余年この悪法は続いた。こうした人間様が犬の下におかれた馬鹿馬鹿しい時代の元禄14年(1701)3月、刃傷松の廊下事件が発生、播州赤穂藩主浅野長矩が高家筆頭吉良義央を殿中で傷つけ、即日切腹、領地は没収された。一方の吉良はお構いなしであった。喧嘩両成敗は武士の世界では常道中の常道、これでは片手落ちの裁定であった。こうなっては何か起きるだろう。抑圧された生活を強いられている江戸っ子たちはそう肌で感じた。江戸大衆の空気は城の中の2人にも流れた。綱吉、吉保は自分たちが仕出かした失敗をホゾを噛んで反省した。反省はしたがおくびにも出さず、吉良を体よく川向うに遠ざけ、悪法を廃止することなく、自己満足の生活を続けていた。敵、内蔵助が京島原で余命を数え、虎視眈々と機会を狙っていた頃である。しかし、2人のそうした毎日はそう長くは続かなかった。
0コメント