2 刃傷松の廊下 それぞれの遺恨と不覚 ①

 元禄14年(1701)3月14日、播州赤穂5万3千石の藩主浅野内匠頭長矩が、幕府高家吉良義央を殿中松の廊下で斬りつけるという事件が発生した。長矩は即日切腹、浅野家は断絶、その知らせは早駕籠で家老内蔵助に知らされた。江戸城松の廊下の刃傷事件から、翌15年の12月15日赤穂浪士(当時は赤穂浪人と呼ばれていた)47士が、本所松坂町の吉良屋敷に討ち入り、16年2月4日切腹に処せられるまでを総称して「赤穂事件」と呼んでいる。また、「忠臣蔵」というのは、この事件を題材にして創られた芝居の題材である。刃傷事件から47年目の寛延元年(1748)それまでの演劇の集大成として「仮名手本忠臣蔵」が浄瑠璃からすぐに歌舞伎に脚本化され大坂で初演、翌年には江戸森田座で上演され大当りをとった。興業界の世界では「勧進帳」と共に独参湯(気付薬)と呼ばれた。こうして「忠臣蔵」という呼び方が定着するようになっていった。「仮名手本」というのは、寺子屋で使われるいろは四十七文字の教科書で、討入した浪士たちと同数字となり、忠臣蔵について解り易い忠臣の教科書という意味になる。また「蔵」という意味は、忠臣の話が沢山詰っているという意味と、内蔵助の蔵をかけているという説がある。

 では刃傷松の廊下の真相はというと、未だにもって不明である。歴史学では事件の当事者の日記や手紙などを1次資料という。その次に信頼出来るのは、同時代の人間が書いた覚書である。それ以外の後世に書かれた物を2次資料といい、信憑性に欠けるものが多いとされる。歴史学者は1次資料を出来るだけ多く集め、それらを吟味して事実を確定していく。こういう観点からみると、刃傷の理由についての1次資料は無いため、本当の理由は不明であり、あくまでも状況証拠からの推察となる。因みに赤穂事件のおける浪士たちの動きが詳しく書かれている書物は、搖泉院の用人による「江赤(こうせき)見聞記」で「家秘抄」の名でも残されている。また、岡嶋八十右衛門の覚書や堀部弥兵衛の「堀部弥兵衛金丸私記」などもある。また一方で、この事件が発生した下地を考察する必要がる。元禄9年(1696)4代家綱の17回忌に江戸へ派遣された勅使は「夷荻礼儀を知らず」と江戸幕府を軽蔑、5代綱吉を夷虜の酋長と記している。公家の目には幕府の礼儀作法はガサツなものと映っていた。それを感じ取った幕府は、武家諸法度で「忠孝を励まし礼儀を正すべきこと」と定め、礼儀作法を指導する高家を重要視するようになっていった。4千2百石の旗本が5万3千石の地方大名を小馬鹿にする、風潮の下地がここに出来上がっていた。また、一方の下地は浅野家側にもあった。笠間藩より赤穂へ移封してきた長直の子、2代長友は若くして死去、3代目長矩はわずか9歳で藩主に就いた。そのせいか多少我儘な性格の少年であり、虚弱体質でもあった。19歳になって幕府が裕福と思われる藩に振ってくる厄介な、しかも金のかかる役目である饗応役に任命された。この時は初めてながら無難にこなした。元禄14年、2度目の大役がまた廻ってきた。長矩この時37歳、昔と違い経験も積み分別もわきまえ、比較的に楽にこなすであろうと誰しもから見られていた殿が何故、殿中で刃を抜く羽目になってしまったのか?殿中松の廊下は、本丸御殿の大広間から白書院に至る全長50m、幅4m程の畳敷の廊下であり、壁にはめ込まれた襖に、松と千鳥の絵が描かれていた事からこう呼ばれた。

 <塩田説>赤穂は瀬戸内海に面した温暖な町である。赤穂の製塩は弥生時代にさかのぼるという。常陸国笠間から移封してきた長直は、この土地の風土、気象環境を考慮して、全国にも通ずる赤穂方式による入浜式塩田法を開発した。赤穂流製塩法は全国の塩田に広まっていき、この時代の製塩業をリードしていった。長直は製塩業を藩の重要な財源として育て上げ、その運上金(税金)は2万8千石、年貢は四公六民であったが、名目5万3千石の小藩ながら実録は他の藩に比べかなり裕福であった。藩札もこの「下り塩」をもって信用があり、そのまま大坂の塩会所で通用するほど信用があった。塩田は124町歩あり、大坂へ40%、江戸へ30%、東北、北陸地方へ30%廻送されていった。承応年間(1652~55)には塩船300艘が50万俵を江戸湊へ廻送、湊に入った塩は茶船に載せられ、日本橋伊勢町堀の塩河岸に運ばれていった。更に瀬戸内の塩は江戸のみにとどまらず、関東から甲信、更に仙台から南部地方まで運ばれていった。こうした瀬戸内海沿岸の製塩業の発展とは逆に、家康入府以来、熱い保護を受けてきた揚げ浜式の行徳は、赤穂などの良質で安価な塩に市場を独占され衰退していった。また、三州吉良家の塩田は、浅野家の約1/6である20町歩と規模が小さく、場所も今でいう愛知県知多半島に位置、品質も気候環境のため余り芳しくなく、饗庭(あえば)塩として主に漬物用として使われていた。吉良は生産高、品質の向上につながるノウハウを浅野から聞き出そうとした。しかし、現代では尚厳しいが農産物、海産物などの生産技術のノウハウは各社の企業秘密である。聞かれたからといってハイそうですかとは教えてくれない。それが常識である。ましてや藩の財政に関わる大事なことである。吉良は己の地位、立場をもってすれば浅野はスラスラと教えるに違いなと高を括っていた。しかし、仮に教えられたにしても、工業製品に限らず、特に農海産物は自然環境に左右されることが多い。その環境をコントロールする事は、当時の人力、技術では不可能であったに違いない。要するに同じように作っても、同じような物は出来上がらないということである。浅野の殿様もこれを踏まて、恩着せがましく吉良に教えても、何の差し障りがなく、返って吉良に喜ばれ藩を潰すことは無かった。双方、心のゆとりが少々欠けていた。

 <吉良不覚説>不覚とは、心や意識がしっかりとしていない事、悟っていない事、思慮分別がない事をいう。吉良義央の奥方富子は上杉30万石から嫁いできた、その夫婦の息子綱憲は上杉家にの養子になり家を継いでいる。綱憲の妻は紀伊中納言徳川光貞の娘であり、その娘の弟綱教は5代将軍綱吉のひとり娘鶴姫と婚姻していた。このため、夫綱教は子のない綱吉の跡を継ぎ、6代将軍と目されていた。こうした閨閥から、吉良は4千2百石の旗本でありながら、殿中においては傲慢な態度を取ることが多かった。万石の大名たちを上から目線で眺めていた。たかが田舎大名に何が出来ると。徳富蘇峰は「近世日本国民史・元禄時代編」で、吉良をつかまえてこう評した。「上にへつらい下におごり、仲間をしのぎ世の中を我が物顔に振る舞う、海千山千の煮ても焼いても食えぬ代物」と。また、その横柄さが態度に出、大名屋敷に訪れると飾られている掛け軸や茶器などをやたらと欲しがったという(秋田藩家老日記)。こうした傲慢さ、尊大を補うためにそれなりの収入が必要となってくる。吉良の領地は三州幡豆郡3千2百石、上州千石の二郡、あわせて4千2百石であった。このため妻の実家上杉家から毎年6千石の補助を受けていた。それでも吉良の派手な行動パターンは賄い切れなかった。そこで何か事があるたびに、袖の下を請求した。献金・帳簿外所得である。浅野家は裕福な藩である、今回の饗応役の指導の御礼として、かなりの謝礼が期待出来た。当時、教授される側はそれなりのお礼をするのが当然であった。通常附届として金1枚=10両を持参したが、長矩はそうした慣例に無頓着に、というよりもそれに反抗的に鰹節を2本届けさせたという。これにより憤慨した吉良は儀式に必要な事項を知らせず、その上で老中の前でその失敗を言上して恥をかかせたりして嫌がらせを繰り返した。これらが遺恨となって刃傷に結びついたとされる。

<金銭トラブル説>5代綱吉はその性格上、儀礼を重視しその礼儀作法にはうるさかった。その当時の勅使饗応費が概算1200両かかるとされていたが、内匠頭は自身が前回18年前に受けた当時は400両であったため今回は700両と見積って予算をだした。しかし、この頃吉良は京都への往復に忙しく、浅野にしろ吉良にしろ、双方ろくな打合せが出来ていないまま当日が近いていった。700両では不足である、片や予算は出してあるし、何も言って来ないからそれでいいだろうということで、色々な面で不備が表面化していった。内蔵助は「人が変われば考え方も変わる。外で悪人でも家に帰れば良き夫、良き父親になる。その人間に合わせて金を惜しむな。体裁を繕う人間は金に弱い。その体裁は内面から作り出されたものでなく、金の鎧で作り出されたものが多い。その為そうした人間は金を欲しがる。そういう人間が教える立場に立ったら金は惜しむなと、何度も内蔵助は亡き殿に伝えていた。山科に家族で住み始めたころ、内蔵助は妻りくに「上に立つお人は、銭金のことに余り詳しくない方がいいのだ」とよく話していた。



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