2 刃傷松の廊下 それぞれの遺恨と不覚 ➁
<浅野長矩持病説>刃傷事件で浅野内匠頭の評判は、余り芳しいものではなかった。武士が刀を抜きながら、相手を斬りとめ(殺傷)られなかったのは、武士として不甲斐ないし、加えて17歳で1度経験しながら、35歳で再度の仕事に逆上して、事件を起こした分別のなさにあった。内匠頭の母の弟が延宝8年(1680)同じ様な事件を起こし、そのDNAをもっているからだとする説もあるが、そうだと云われればそうかと云った程度の意味でしかない。長矩には子供の頃から、雨や曇りの天候が不順な日に、胸が圧迫され塞がり、苦しむ症状に悩まされていた。この症状をその時代「痞(つかえ)」と呼んだ。この健康状態に更にプレッシャーをかけたのが吉良の対応であった。元禄14年(1701)3月12日、江戸の天気は雨、13日曇り、14日は花曇りといった具合であった。精神的な疲労とストレス、これに長矩の短気でわがままな性格が加わった。「この間の遺恨覚えたるか」と叫びながら、吉良に斬りかかった。吉良は眉間を、更に逃げようとして背後から切りつけられたところで、長矩は取り押さえられた。
<家康密書説>関ケ原の戦いの折、家康は東軍の味方に引き入れようと、清正や正則とある密約を交わした。その後広島に移封された正則は、城を黙って改修した事を咎められ、改易させられた。その密書を和歌山から転封してきた浅野長晟が見つけ、これはここに置いておくと問題になると、赤穂の浅野長直に手渡した。三代目の長矩もそれを知らされていた。それを何故か柳沢吉保が嗅ぎつけ、綱吉から吉良に「その密書を奪い返せ」と命令が下った。幕府の機密文書の争奪戦が浅野家と吉良家の間に始まった。「渡せ」「そのようなものはない」執拗な吉良の攻勢に長矩は切れ、事件が発生した。またこれとは別に、強引に密書の奪回を目論んだ5代綱吉が吉良と梶川と仕組み、梶川が長矩を押さえつけている間に、吉良が長矩の刀を奪い自分の額に傷をつけ、刃傷事件をでっち上げ、長矩を切腹に追い込み、浅野家を断絶させ、没収したというものである。5代綱吉誕生の立役者、大老堀田正俊が若年寄稲葉正休に殿中で殺害され、その稲葉も側にいた人間たちに、斬られ即死したシナリオとよく似ている。結局吉良は、幕府に疎んじられ、川向うの本所松坂町に屋敷替えをさせられ、浪士たちに打ち取られた。
<掛け軸真偽説>ある茶会で披露された掛け軸をめぐって、吉良と長矩が論争をした。結果、長矩が偽物だと立証したので、吉良の尊大な名誉は大いに傷つけられ、長矩は吉良から大きな恨みを買うことになった。双方の性格がよく出た話である。<浅野尊皇家説>吉良家は高家となって、勅使や院使の接待役や、将軍の名代としての朝廷への使者、伊勢神宮や日光東照宮などへの将軍の代参などを努めた。そうした役目柄から、吉良は綱吉の密命で、当時の霊元天皇に譲位を強要、貞享4年(1678)3月21日、東山天皇を皇位につけた。こうした行為を尊皇派である長矩は快く思っていなかった。この年1月には、綱吉が牛馬について「生類憐みの令」を出した年でもある。また、<浅野佐幕家説>というのもある。浅野家は代々幕府体制よりと目されていた。塩田の開発により、藩の財政は他藩に比べ豊かであり、元禄文化を謳歌していた。こうした時代のなかで、吉良義央の幕府内における閨閥を笠に着た尊大な振る舞いをみて、実直な性格の長矩は憤慨、吉良は生かしておいては幕府のためにならぬと考えていた。<大名不通説>大名同士でも、一般の人間社会と同様に、殿中において同席しても、参勤交代の途上においてすれ違っても、挨拶も交わさないといった泰平の時代においても、冷戦状態の大名同士の対立が続いていた藩があった。この遠因は「関ケ原の戦い」や「大坂冬の陣・夏の陣」において、敵対関係にあったとか、仲間同士であっても抜け駆けされ手柄を横取されたとか、迷惑をかけられたといった昔の恨み、辛みの事柄であった。幕府は元禄年間(1688~1703)不通状態の大名同士、前田家と細川家とか、池田家と水戸徳川、土佐山内家などの大名家同士を和睦させるように努めた。そのせいか浅野家と伊予伊達家もそうした関係であったが、討ち入り後の凱旋コースの途上では、JR新橋東口近くにあった伊達家上屋敷の門前で、泉岳寺へ向かう浪士たちは粥を饗応された。冷えた空腹の体には、伊達家の粥は仏の恵みであった。
幕府が下した内匠頭に対する裁定は即日切腹であった。縄網にかけられた駕籠に乗せられ、「平河門」から陸奥一関藩田村右京太夫の屋敷に護送された。田村家の家臣が長矩の口述を筆記したが、幕府への配慮して以下の文章になった。「今日不得止事候故=今日の殿中の刃傷も一時の腹立ちではなく、武士として忍びがたく堪忍できなく、やむを得ず起こったことである」辞世「風さそう 花よりもなほ我はまた 春の名残を いかにとかせん」。こうして国持大名が、何の調べもなく綱吉の専断により、屋敷の庭先で即日切腹させられた。尚、江戸城西北部に位置する平河門は不浄門と呼ばれ、神田川の原型となる平川が「日比谷の入り江」に流れ込んでいた河口あたりにあった為この名がある。この門を生きて出た罪人は、この内匠頭長矩と大奥総取締役絵島だけである。一方吉良にはお咎めなし、この幕府の「片落ち」の裁定が、浪士たちの不満となり討入へと繋がっていく。この事件の急報は、築地鉄砲洲の上屋敷から、播州赤穂の国家老大石内蔵助のもとへ知らされた。第1便は3月14日申の下刻(pm5:00前)殿が刃傷を起こしたことを知らせに早駕籠が跳んだ。次いで第2便は主君の切腹と改易を知らせるために、戌の中刻(pm8:00頃)に跳んだ。江戸から赤穂までは172里(675,5㌔)その時代は155里とされているが、1日10里、1里≒4㌔を歩くとして通常15日から16日かかる。参勤交代の決まりでは江戸~赤穂間は17日の行程となっている。また飛脚便では8日のコースである。因みに江戸日本橋から京都三条大橋まで、徒歩で13日から14日の行程とされる。通常早駕籠でも1週間程かかるが、事件の早駕籠第1便は19日卯の刻(am6:00頃)着、第2便は同日戌の中刻(pm8:00頃)両便とも僅か4日半でクタクタになって赤穂城に到達した。これを可能にしたのは伝馬制を扱う問屋場などに、赤穂の塩の扱いを通じて利を与えていた結果であった。知らせを受けた内蔵助はすぐさま藩士全員に惣登城を命じた。赤穂藩士たちとその家族にとって、この日は苦難と哀しみの途の始まりであった。
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