4 伝馬町牢屋敷と明暦の大火

 慶長18年(1613)それまで常盤橋御門近くにあった江戸最大の牢獄が、小伝馬町(中央区十恩公園)に移転してきた。この「伝馬町牢屋敷」は明治8年、現在の防衛省(市ヶ谷)に移転するまで、263年間存続する事になる。伝馬町の敷地は約2700坪、屋敷をめぐる練塀の高さは15尺≒4,5m、水堀の幅3間≒5,4m、深さ18尺≒5,5mという厳しいガードに囲まれ、この間破牢、脱獄者は1人も出なかった。牢屋敷は評定所、寺社、町奉行所、火盗改めなどから送られてきた者たちを収容した。武士や僧侶、神職たちを収容する揚屋敷、一般町人用の大牢、無宿人用の二間牢、百姓牢、女牢などがあった。因みに罪を犯した大名や500石以上の旗本たちは、大名家などに預けられ、吟味をうけた。牢屋敷の定員は350人であったが、常時400~500人が収容され、「安政の大獄」時には定員の倍、最大700人が収容されていた。この結果、牢内は常にすし詰め状態であり横になることが出来ず、立ったままで睡眠をとるという地獄状態で、圧死、間引きされる囚人が続出した。牢内は自治制であり、牢名主なるものが袖の下を受け取りました仕切っていた。また、江戸時代を通して懲役刑は存在せず、判決は半年以内に下され、江戸処払い、遠島、処刑などと量刑が決められていった。

 明暦3年(1657)1月、本郷丸山本妙寺から「明暦の大火(振袖火事)」が発生した。代々世襲となる牢奉行石出帯刀は、迫りくる赤猫(火の手)から牢内の囚人たちをどう守るかの判断に立たされた。牢の鍵は町奉行所の管轄である。帯刀は町奉行に無断で牢の格子を壊して囚人たちを放免した。「是よりのち、各々勝手に浅草新寺町の善慶寺に向かえ、ただし3日過ぎても寺に帰らぬ者は必ずひっ捕らえて死罪とする」。この事件を契機に、伝馬町牢奉行石出帯刀はその後の慣行として、軽犯罪の者を3日に限り放免、本所回向院に戻れば罪一等宥免、戻らず捕えられし者は死罪とした。重罪人は一人一人縛って安全な場所に移された。伝馬町牢屋敷は慶長年間に移転してから明治8年に再移転するまで16回も火事に見舞われたが、戻らぬ者は1人も出なかったと伝えられている。牢を出された囚人たちは先ず火の手から逃れようと、浅草方面に通じる「浅草御門」に向かった。浅草御門は家康次男、福井藩祖結城秀康が初音森神社の跡地に築いた枡形門である。江戸三十六見附のひとつで、六高札場のひとつでもあり、浅草橋御門、浅草口とも呼ばれていた。日光、奥州道中に通じるこの門の利用は一般市民に限られ、将軍さまの東照宮参詣は、同じ神田川上流の「筋違御門」を利用して御成道を進み、幸手で日光道中と合流した。当日、浅草御門の門番たちは、囚人たちが放免されたことを知らされていなかった。囚人たちが脱獄したものと思い門を閉ざした。そこへ府内から避難してきた一般市民と囚人たちが殺到した。御門の北側は神田川が流れていた。門の前で圧死する者焼死する者、塀をやっと乗り越えたが折からの正月18日の極寒、神田川で溺死、凍死するものが続出、地獄絵図となった。この様子を詳しく記した「むさしあぶみ」が近くの初音森神社にある。

 嘉永6年(1853)のペリー来航により、江戸幕府は鎖国政策から開国へと舵を切った。それまで単なる装飾的存在に過ぎなかった京都朝廷が、雄藩や公家有志に押され国政上の拒否権を持つようになった。天皇(帝)の意思は勅許であり、将軍(盟主)の命令は、法理論的にいえば主命ではなく、家来がその命令を聞かずとも不忠とはならなかった。安政5年(1858)4月彦根藩主井伊直弼が大老職に就任、6月「日米修好通商条約」調印、紀州徳川慶福(家茂)を14代将軍とした。7月に入ると朝廷は通商条約の奏請に対して、その勅許を許さないでいたが、6月の勅許を得ないままの無断調印を責め、不満の旨を水戸藩など13藩に伝えた。これを受けた諸藩は幕府に対して抗議活動を始めた。直弼はこれらの言動を直ちに弾圧、封じ込める政策を取った。尊王攘夷派の水戸家や一橋家などの諸侯、大名及び勤王の志士たちを蟄居左遷入牢した。これらの直弼がとった一連の対応、処罰を「安政の大獄」という。吉田松陰は「狂夫の言」として、日米修好通商条約を締結した幕府を避難、倒幕思想を明確にしていった。松陰は長州藩士杉百合之助の次男であり、5歳で山鹿流の兵学師範吉田大助の養子となった、松陰もその犠牲者の1人であった。11歳で藩主に「武教全書」を講義、嘉永7年ペリー来航により密航を企て、ポーハタン号に乗り込もうとしたが失敗、幽閉処分となった。安政3年3月、邸内の廃屋を改装して学問塾舎にして塾生を募った。政治的集団の色彩が強かった。「松下村塾」である。高杉晋作、伊藤博文、久坂玄審、山形有朋などが集まってきた。教える側の一方的な学問の場ではなく、塾生同士の意見交換の場であり、山に登ったり水泳などにも出かけた。藩校明倫館に比べ身分を問わず受け入れ、安政3年から安政5年12月までの2年10ヶ月の間に92名の塾生を輩出し、彼らは維新の貴重な原動力となっていった。

 安政6年「安政の大獄」は極限に達した。松陰は老中間部詮勝暗殺計画未遂の疑いで、7月江戸に監送され、調べに対してあっさり自白、10月27日、伝馬町牢屋敷内の処刑場(大楽寺)で斬首された。行年30歳。「身はたとひ 武蔵の野辺に朽ちるとも 留めおかしまし 大和魂」留魂録の碑は今も十恩公園東側に建つ。この石碑は萩城址の宮崎八幡宮付近より掘り出した石である。この月は首切役山田浅右衛門によって橋本左内26歳、頼三樹三郎34歳らも処刑された。安政の大獄によって96名もの勤王の志士が処刑された。松陰の遺体は当初小塚原に埋められたが、高杉晋作らにより文久3年(1863)若林村(世田谷区)の毛利山に改葬され、松陰神社となり現在に至っている。史料は萩市松陰神社が所蔵している。こうした一連の弾圧に対し、水戸藩士17名に薩摩藩士1人が加わって決行された暗殺事件が、万延元年(1860)3月3日の「桜田門外の変」である。紀尾井坂の上屋敷を出た井伊直弼の駕籠は五っ半(am9:00頃)外桜田門に入ろうとした。そこへ物陰に隠れていた藩士たちたちが襲撃した。不意をつかれた一行は、折からの大雪で刀の柄に巻いていた布が邪魔して対応が遅れ、あっけなく直弼は討たれてしまった。44歳。この事件で幕府の威信は極端に低下した。万延という年はこの1年で終わる。幕府は墜とされた威信を取り戻そうと「公武合体」を画策した。孝明天皇の義理の妹和宮を14代家茂に降嫁させ、朝廷との関係修復を狙った。一緒になった二人は、家茂の脚気による死で短い結婚生活であったが、政略結婚の割には仲の良い夫婦であったと伝えられる。一方画策した老中安藤信正は文久2年(1862)坂下門外で襲われ辞職、幕府の威信は益々地に堕ちていった。同年8月、会津藩主松平容保京都守護職を拝命,元治元年(1864)6月、「池田屋事件」で長州土佐の藩士が犠牲となる。7月「蛤御門の変」から「第1次長州征伐」開始、慶応2年1月には「薩長同盟」が結ばれ、翌3年10月徳川慶喜は「大政奉還」を上奏、4年江戸は無血開城されて徳川の長い歴史は終わった。次回江戸の治安5は、長谷川平蔵が建策した「石川島人足寄場」の物語です。<チーム江戸>



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