3 与力、同心、岡っ引

 「捕物帖」とは、岡っ引が事件の内容を与力・同心に報告、与力・同心が公式記録として町奉行に提出、その報告書を奉行所の書役が、御用部屋の当座帳に書き留めておく。この書き留められた帳面を捕物帖・捕物控と云う。小説での捕物帖は、大正6年1月に文芸倶楽部から発行された、岡本綺堂原作「半七捕物帖、お文の魂」が初出である。昭和になると、3年佐々木味津三「右門捕物帖」、6年投げ銭(四文銭)が仕留め技の、野村胡堂原作「銭形平次捕物控」が始まる。戦後の昭和40年代になると、お馴染み池波正太郎の「鬼平犯科帳」、平岩弓枝の「御宿かわせみ」に、南原幹雄の「付き馬屋おえん」、女流作家、澤田ふじ子の「公事宿事件書留帳」や、宮部みゆき、北原亞以子などのシリーズ作品が登場しはじめる。 岡っ引は神田三崎町に住む半七が初登場であり、以後、明神下の平次、伝七、人形佐七、などのヒーローが登場してくる。御宿かわせみでは、与力の弟神林東吾と同心の娘であった庄司るいが登場、日本橋川第一橋梁「豊海橋(乙女橋)」南詰北新堀大川端町にある、「かわせみ」という旅籠を舞台に繰り広げられる、着物姿のホームドラマ的捕物帖である。また、「石川島人足寄場」を献策した長谷川平蔵が、火付盗賊改役長官として活躍、放火、強盗殺人など、凶悪犯罪を断罪する鬼平犯科帳は、小説、映画、TVドラマ化され、多くのフアンを魅了した。火盗(火付強盗改役)は、幕府直参御手先組(御家人の弓方、鉄砲方)の加役とされたもので、江戸っ子たちは町奉行所を「お町」、火盗改めを「お加役」と呼んだ。

 「与力、同心」とは、鎌倉時代は単に加勢する事を指した。戦国時代になると、守護大名など有力武将のもとに編成された「与騎、寄子」が「与力」を意味した。江戸時代においては、町奉行、遠国奉行、先手組などの配下のもと、警察権、治安維持の職務を担った与力・同心を指すようになる。町方与力は南北江戸町奉行に各25騎配置された。知行200石で騎乗身分である。この知行200石は、上総・下総にある1万石の共同の知行地からの年貢が、南北合計50人の与力たちに配分された。通常、この200石取は御目見え以上の旗本クラスであったが、罪人と関わるため御目見えなしの御家人で、不浄役人とされた。与力は奉行個人から俸禄を受け、奉行と共に着任、離任する内与力と、幕府から俸禄を受け、奉行所の職務を担った通常の与力に分けることができる。一般与力の職務は①財政・人事を担当する年番方、➁事件を取り調べ、裁決を下す吟味方 ③先例を重視したため凡例の調査、整理した例繰方(れいくりかた)④裁判を記録する目安方などがあった、他に、小石川養生所、伝馬町牢屋式を見廻りしたり、町の防火活動を指揮する町火消人足改めの職務をこなした。

 御家人格の「同心」の俸禄は、30俵2人扶持、100坪の役宅に住み、慶長年間(1596~1614)南北江戸町奉行に各75人配置されていたが、江戸の町の拡大に伴い幕末には各100人、合計200人体制となった。与力・同心の職務は重なるものが多く、与力の補佐的な職務であった。しかし、「享保の改革」による町火消制度の整備を受けて、出火の折の人足改め、養生所や本所の見廻りなどの掛りが新設された。特に本所では同所の橋や道普請、川浚いなどの職務もふえた。「寛政の改革」時には、①奉行に直属して、事件の裏付け捜査を行う隠密廻り各2人、➁町を巡回して犯罪を捜査、逮捕する定町廻り各6人、③定町廻りの補佐の臨時廻り各6人、の三廻り制となり、町会所掛り、人足寄場掛が設置された。その頃の洒落者同心たちは、毎日、髷を銀杏髷に結い、着流しに黒紋付の羽織を、腰のあたりで博多の帯に巻くように挟み、緋房、紺房の十手を、腰の後ろにさらりと落とした。紺足袋の雪駄には、裏に皮を張り、擦り減らないように鉄片を張って闊歩した。因みに与力・同心職は、「抱席(かかえせき)」といって原則一代限り、世襲制ではなかったが、その仕事の性格上、大体跡継ぎは自分の息子と決まっていた。   

 「天保の改革」の時代に入ると、水野忠邦によって市中取締、諸色(物価)調掛が新設され、南町奉行、鳥居耀蔵の指揮のもと、質素倹約を目的として、市中の取締や諸色の引き下げに奔走した。幕末になると、日本沿岸の外国船の接近により外国掛、海陸御備向御用取扱掛が新設され、多忙を極めた。その多忙を補ったのが、それぞれの同心が2~3人抱えていた「小者・手先」たちで、警察行政の末端を担っていた非公認の協力者である。そのころ下女でも食事付で年2~3両であったが、小者の俸給は年1両程度であった。これを女房の商売させたり、縄張りからの付け届けなどで補足した。悪さをするとすれば、その土壌がここにあった。江戸の町では御用聞き、岡っ引、その配下(子分)は下っ引と呼ばれた。関八州では、犯罪の密告や犯人の捕縛に当たった目明し(目証し=犯罪者に同類の者を密告させ、その犯罪を証明させた者)と呼ばれ、上方では手先、口問(くもん)と呼ばれた。岡っ引の「岡」とは、岡場所、岡惚れから連想されるように、仮にとか傍という意味あいがある。本来、公式なとか、通常である、ノーマルであるといった言葉から外れた、ややか、ややどころか大きく外れた、かなり斜めの角度からその現場に参入してくる人間、行動、プロセスを指す。公儀の人間(同心)ではない者(脇の人間)が、他人様を拘引することから、岡っ引と呼ばれる。尚、同心が捕縛、拘引する事を「本引き」という。「逆もまた真なり」という言葉があるが、この岡(脇)は、真とはならない場合がある。このようなスタンスを職業とした人たちとは、江戸っ子たちは余り積極的には接触しょうとはしなかった。であるからに故に、物語(捕物帖)上では、正義感燃える勧善懲悪のヒーローが登場して来る所以ともなっていった。そこに従事する大方は、真に江戸の町、市民を心配する人たちであった事は、現代と変わらないが、まだまだ、そうだとは言い切れない人間的弱さが江戸にはあった。

 こうした地道な人間のソフトな努力で、江戸の治安を図る一方、幕府は江戸の町を「町木戸」や「自身番」で警護した。町木戸は江戸の町の要所要所に6尺×9尺、高さ1丈の造りで設置された。町木戸には、番太郎が明けの六ッ(am6:00)から夜四ッ(pm10:00)まで常駐、それ以後医者と産婆以外の例外を除いて、夜間の通行を禁止した。番太郎にはその町内から月に20文から100文支払われたが、それでは生活出来ない為、通年には駄菓子、ローソク、ほうき、草履などの生活必需品を売り、夏には金魚、冬になると焼き芋を売って生活費の足しにした。また、自身番は当初、町内の失火や事件の取り締りや見張りのため、町内持ちの設備として作られた建物である。町人自身が交替で務めたのでこの名がある。「自身番 捨て子が泣いて 世帯じみ」と川柳で詠まれるように、町内で行き倒れや捨て子、迷子があるとその町内の責任とされ、自身番小屋で処理する義務を負った。


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