2 江戸町奉行所

 江戸時代、第三者から武家の妻(正室)たちへの敬称は、将軍家の正室御台所から始まって、御簾中、奥方、奥様、御内儀、御新造と続く。奥様までが士分、御内儀、御新造は与力・同心クラスを指す。しかし、与力・同心の妻たちは奥様と呼ばれ「奥様あって殿様なし」と、八丁堀七不思議に数えられた。八丁堀といえば、町方の同心たちを指す陰語となっているが、八丁堀の与力・同心たちは、犯罪者を追いかける事が、仕事だと思われがちであるが、実際はその大部分が、現在の経済関連の官公庁に相当する事務に従事、当時は業界からの贈答が多かったものと見え、経済的には大名たち並みか、それ以上の生活をしていた。こうした状況から、八丁堀の奥様が誕生したものと考えられてきた。

 元禄年間(1688~1703)、江戸と云われた地域は、現在の東京の1/7の広さであった。しかし、交番に当たる辻番、自身番は1800ヶ所余、その密度は現在とに比べるとほぼ16倍、夜四っ(pm10:00頃)以降の行動は、犬猫以外厳しい詮議を受けた。その分江戸は世界一治安のいい町であった。また、江戸時代は現在のように、三権分立制度は確立しておらず、司法は独立した役職ではなかった。江戸の三奉行、勘定奉行、寺社奉行、町奉行が、自己の管轄、支配の限りにおいて、事件を調べ裁く、これを「一手限り(いってぎり)のもの」といったが、捌(さば)き=裁きは、三奉行それぞれが、捌きもの(事件)の是非を明らかにして裁断をする、一手限りのものであった。しかし、事件がそれぞれの奉行の手に負えない、由比正雪事件や天一坊事件など幕府全体に関わる大事件、難事件に加え、黒田騒動、伊達騒動など幕藩体制を揺るがすような大事件になると、これらの奉行たちに加え、大目付、目付、若年寄などが加わった「評定(裁判)所」で、審議され裁定された。町奉行二人が係る事件をニ手掛り、勘定、寺社、町奉行の三奉行が係る事件を三手掛り、大目付、目付などが係る大事件を、五手掛りといった。

 江戸都市部の市政(行政・司法)を司るのが江戸町奉行であり、江戸以外の大坂、長崎、佐渡のなど天領を担った奉行は、その地名を冠した呼称で呼ばれたが、総称して遠国奉行と呼ばれた。近郊農家の行政、租税を担った代官を、幕府直轄地のそれを担った郡代を、掌握したのが勘定奉行である。しかし、江戸の町が拡大するにつれ、農村部が都市化していき、この体制に混乱が生じてきた。そこで、文政元年(1818)江戸図に、府内、府外を区別するため、朱色の墨で線が引かれた。いわゆる「朱引図」である。東は亀戸、小名木川東端辺り、西は内藤新宿、代々木まで、南は南品川、北は上尾久辺りまでであった。これを「御府内」と呼んだ。いわゆるここまでが江戸であった。更に朱引き内の町屋(町人地)に墨引きを入れ、江戸の人口の約半分50~60万人を占める江戸の町人と、江戸の土地の内の27万坪、僅か二割弱≒17%でしかない町人地に関する行政、立法、司法、警察、消防などを統括、現在の都知事、警視総監、地裁長官を兼任したのが、南北江戸町奉行である。旗本から任命され老中支配、石高は3千石であった。一般に町奉行というのは、江戸町奉行を指す。また、町奉行という名称は、その役職から付けられた名称で、町人たちからは「御番所・御役所」と呼ばれた。尚、府内の藩領は勘定奉行が、藩邸は各藩が、旗本・御家人などの武家地は大目付・若年寄が、寺社地は寺社奉行が担った。

 江戸町奉行から江戸の町人たちに発せられた法令を「町触」という。内容は、主に町内に無法者や遊女を置かない。人別帖を作成して、耶蘇宗門(キリスト教)を禁止する。町内のごみを放置しないなどであった。これらの町触は、日本橋本町に住む三人の町年寄りに先ず伝えられ、名主、家主、大家、長屋の住民とピラミッド型に伝達され、町方の支配機構を確立。また、町は町内の治安を守るため、自身番制度を設けて、自分たちの安全を守っていった。更に商業部門の取り扱い窓口は、本町に屋敷を構えていた町年寄たちが担った。呉服、木綿、薬種問屋の掛りは奈良屋、これを南町奉行所が管轄、酒、廻船問屋、材木、書物などの罹りは樽屋、これを北町奉行所が管轄した。江戸町奉行は定員2人、旗本から選任、家康が入府した天正18年(1590)、板倉勝重と彦坂元正が就任したのが始まりであるが、毎日四っ(am10時頃)に登城、八っ(pm2時頃)に奉行所に戻り執務を行なった。激務のため2~3年で交代を繰り返したが、大岡忠相は20年近く、「耳袋」を著した根岸鎮衡は18年近く勤めあげた。江戸町奉行所は、慶長9年(1604)八代洲河岸と呉服橋御門内に始まり、南北の奉行所制度が確立したのは、三代家光の時代、寛永8年(1631)である。元禄の頃、一時的に中町奉行所が置かれたが、宝永4年(1704)数寄屋橋御門内(南町奉行所)、文化3年(1806)呉服橋御門内(北町奉行所)が設置され、これが固定化、ひと月交代の月番制が敷かれた。因みに大坂は、東町西町となっている。奉行は役宅制度で家族と共に居住、職住一体の奉行所の正面に大門が置かれ、右側に夜間も受け付けるため、終日開け放れた小門、左側は囚人の出入り口であった。月番の奉行所は、大門を開き、非番の奉行所は右側の小門のみを開き、前月に受理した訴訟の処理を行なった。奉行は初審を担当、以降は吟味役与力が担当したが、重要案件については屏風の陰でこれを聞き、再吟味し慎重を期した。遠島、追放、叩き、叱りの処罰を、白洲で裁定、極刑は伝馬町へ検視与力が出向き下した。








江戸純情派「チーム江戸」

ようこそ 江戸純情派「チーム江戸」へ。

0コメント

  • 1000 / 1000