第4章 江戸の治安 1七不思議の八丁堀

 八丁堀界隈の女湯は、毎朝四っ(am10:00頃)まで、誰も女湯に入れないようにしておく、これを「留湯」と云う。そこへ入ってくる客は、日髪、日剃を日常の習慣とした洒落者万年同心、いわゆる八丁堀の旦那である。八丁堀銭湯の女湯の脱衣所には、女が差さないはずの刀掛けが置いてある。だが留湯があるのは八丁堀界隈の銭湯だけで、茅場町や人形町などへでは、芳町や日本橋の芸妓たちが多く住んでいるので、彼女たちは朝起きると、昨夜の仕事の疲れをいやす為、朝湯にやって来る。留湯であろうが、男が入っていようが、ここは女湯である。女湯に女が入って何が悪い。悪いのはそっちだろうと、サッサと入ってくる。江戸の女は気凬がいい。浴衣を脱いでさぁ~と湯船に浸かる。見ている旦那の方が気後れする。

 「御府内備考」によれば、八丁堀と楓(紅葉)川とに囲まれた地域を、通称「八丁堀」と呼んでいた。江戸の海から、楓川、10本の舟入堀、京橋川、三十間堀などに舟を通すため、長さ8町(1町≒109m)幅22間の掘割が、慶長17年(1612)に開削された。京橋川の下流、白魚橋から下流、弾正橋、真福寺川を左右に見て、中ノ橋、八丁堀橋、稲荷橋から亀島川へ注ぐ掘割である。後に「町」から「丁」となったこの八丁堀の掘割、明治になって「紅葉川」に対して「桜川」と呼ばれ、昭和40~44年にかけ埋め立てられ、姿を消している。そもそも八丁堀堀削計画は、慶長17年(1612)2代秀忠が大御所家康に上申、着手する「第2次天下普請」によるものである。江戸城建設による物資運搬のため、楓川から10本の舟入堀を城に向けて開削する計画が持ち上がった。この舟入堀を生かすためには、江戸の海からの水路が必要である。つまり、外港(江戸湊)から内港(河岸地)をつなぐ掘割が必要であった。このため、大川(隅田川)に続いている亀島川から京橋川を結び、これを1本の縦の掘割とし、以下、日本橋川まで、京橋川の「水の十字路」から日本橋川までを結んだ、楓川(首都高1号線)を横のラインとして、適度の間隔をおいて現在の中央通り辺りまで縦に伸ばした掘割が、櫛型の舟入堀である。当時の土木工事の技術では、外洋に埠頭をせり出す事は不可能であったため、地面を掘り下げる方法がとられた。江戸の治安のため、八丁堀の下流の入口には、江戸の海からの外国船、不審船などの侵入を防ぐため、船手奉行・向井将監の屋敷兼船番所が置かれていた。因みに、八丁堀という町の名称の由来は、こうした掘割からきたものと考えられが、天正18年、家康と共に江戸へ来た、岡崎十左衛門なる者がこの地を拝領、故郷三河岡崎の八丁堀に因み、この名称をつけたとされるが、掘割からの町の名称の方が納得性がある。

 天正18年(1590)家康が入府したのちの江戸初期、当初の八丁堀界隈は、霊巖島同様に寺町であった。「江戸砂子」によると「八丁堀五丁あり、五丁目に稲荷橋あり、この橋南詰に稲荷の社(鉄砲洲稲荷神社)あり。北岸を北八丁堀、本八丁堀、南岸を南八丁堀という」とある。現在の地名でいくと、八丁堀1~4丁目、茅場町1~3丁目、兜町辺りを指した。そこに後世、人類史上最悪の都市火災と云われた「明暦の大火」が、明暦3年(1657)発生。神社仏閣は浅草や川向うの深川など、当時の府外へ移された。仏様に代わって移り住んできたのが、八丁堀の旦那たちである。拝領屋敷に住んだ南北両奉行所の与力たちは、300坪の冠木門を構えた敷地に住み、200石の給金を頂き、同心たちは100坪ほど、30俵2人扶持の給金であった。彼らはそれでは生活費が足りないと、表通り側の土地に長屋を建て、町医者、学者、絵師など賃貸して身入りを増やした。ただ、ここはあくまでも徒組(御徒町)百人組(大久保百人町)弓組など、組織単位で拝領する大繩拝領地、組屋敷地であり武家地である為、町人の浮世絵師などに借すことはできなかった。組屋敷とは幕府直参(旗本・後家人)の下級武士に与えられた屋敷町であり、役職別にそれぞれの「組」の者が集団で住んでいた為にこの名がある。もっともこれで彼らの生計が収まる訳ではなく、役目柄、active or passiveに、本人の意思か不本意か、袖の下なるものを頂いた。その金額は彼らの年収をはるかに超えた。彼らは優雅な環境の下、呉服橋御門内の北町奉行所へ約10町、数寄屋橋御門内の南町奉行所へ約12~13町(1町≒109m)ほどの道のりを通った。

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