6 幕臣vs札差商人
大宝元年(701)「公地公民制度」が制定「大宝律令」が公布された。次第に国から与えられた荘園を、権力をもった国司が税を徴収したり、荘園を奪い取ることが多くなってきた。これらの行為に対し、農民たちが武装して、自分たちの土地を守っていったのが、武士の始まりだとされる。また、国司たちも、その勢力を伸ばすために武装化、武士となっていった。歴史的に見られる、武士が表舞台に立った事件は、保元元年(1156)源平が争った「保元の乱」である。以後、武士たちがその武力を背景に、江戸幕府が崩壊するまで、我が国の政治権力を把握してきた。鎌倉時代の「御家人」は、幕府と主従関係を結んだ武士である。将軍から所領を安堵され、その見返りとして軍役などの奉公の義務を負った。江戸時代、将軍直属の部下は旗本・御家人であり「幕臣」と呼ばれた。「旗本」は万石未満の武士で(1万石以上を大名という)、将軍に御目得ができ、普段の仕事は城の警備や将軍の護衛を担当する「番方」と、城や市内の機能及び税の徴収などを担当した「文官」がいた。江戸時代を通して出世する者は少なく、先祖の家禄を守るのが精いっぱいであった。一方、万石以下で御見得のない者を「御家人」と呼んだ。旗本は侍=騎兵で約5千人、御家人は徒=歩兵で約1万7千人、併せて2万2千人が、将軍直属の部下(江戸の公務員たち)であった。
旗本の俸禄は知行取り、蔵米取り、扶持米で、千石以上は約16%、100~500石取りが約60%であった。知行取りは「四公六民」が原則、その4割が収入となったが、与えられた領地はあちこち分散している場合が多く、その管理、見廻りに経費がかさんだ。蔵米が現在でいう基本給、扶持米は家臣への手当ての意味合いであったが、両者とも当座の生活にあてがわれていたのが現実であった。一方、御家人は年3回の蔵米取り、100俵以上の者は5~6%で、残りの者は50俵以下であり、大半は無役で収入が少ない分、アルバイトに精を出した。諸藩の藩士は100石の知行取りで、四公六民で収入は40石≒100俵(実質35石)の収入があり、半農半武士で生活は一応安定していたが、江戸在住の御家人たちは、同じ100俵でも、江戸の慢性的物価高とインフレ率が先祖代々の収入を上回り、内職をしても生活が圧迫されていた。享保7年(1722)旗本の平均年収は507石、御家人のそれはわずか32石であった。なかには三両一分、いわゆるサンピンと呼ばれた御家人たちもいた。部屋付き、食付きのおさんどんと同程度の立場にいた。使用人を雇うゆとりのない彼らは、必要に応じて口入屋から臨時雇いをし、節約に努めて副業に精を出した。食材の共同購入、野菜の自家栽培、衣類は勿論人形町にあった富沢町の古着を着用した。戦後日本の都市生活とだぶっている。究極につまると、武士の株を売ったり、裕福な商人の子弟を、高額な持参金つきで、養子に迎えたりして一息をついた。また、支給される蔵米も上質な米は、幕府の要職者にあてがわれ、御家人たちのそれには、成長の良くない米が支給された。従って換金率も悪かった。何としても足りない身上であった。彼らにとって、人生とは倹約か破産であり、「倹約」は人生から離れられない言葉であった。その拡大版が江戸幕府であり、今日の政府予算も、収支のバランスがとれているように見せかけているが、支出の不足分を国債の発行や増税で賄い、一般財政の支出を抑え、辻褄を合わせている。浅草蔵前の「札差商人」たちは、生活基盤の弱い幕臣たちの足元を見るように、米券を担保に金融=金貸し業を行うようになっていった。その金利は年々高くなっていき、現代と同じ様に、持つ者と持たざる者の貧富の差が益々拡大、身分の高い士が、2,3年先の米券を担保に、赤貧の「武士は食わねど高楊枝」を地で行く生活をしていった。反面、金を動かすだけで、高い金利をむさぼった札差商人たちは、豪奢な生活を送るようになっていった。
人間1人が1年間に消費する米は約1石である。江戸初期、米は馬の背に米俵2俵(1俵≒4斗、120㎏)が振り分けられて運ばれてきた。江戸近郊には大きな米産地がなく、寛永9年(1632)仙台藩記録によると、江戸で消費される米の約6~7割は、奥州産=仙台米であった。江戸の物流は陸運から水運へと移行、東廻り航路に乗せられた米は、利根川をさかのぼり関宿から南下、中川番所を通過して、小名木川から大川(隅田川I)右岸の浅草御蔵に搬送されてきた。元和2年(1620)に構築された「浅草御蔵」は、幕府が年貢米備蓄用に建設した米蔵で、御蔵奉行が管理、常に40~50万石を備畜していた。八筋の櫛型の溝渠(舟入堀)を備え、上流から1~8番堀の船着場には、幕末時、倉庫数67宇、354戸を数えた。知行地を持たない旗本や御家人たちに支給する、俸禄米=幕府直参の切米を取り扱った、札差商人たちが居住した片町と呼ばれた町は、掘割を挟んだ御米蔵の西側にあり、奥州街道が平行して走っていた。江戸では他に、本所、緊急時用の竹橋、小菅などにも置かれ、大坂には難波、天王寺に置かれていた。
江戸の浅草御米蔵に蓄えられた米は、小旗本や御家人の扶持米である。当初は蔵前の引換所の茶店に、勘定奉行所発行の※券を持参して、米を引き取った。札差商人は他の武士の米と紛れないように、依頼主の支給手形を米俵に差しておいた。この作業から、蔵前の商人たちを札差商人と呼ぶようになった。御家人たちは引き取った米を、米問屋で一部換金して、生活費に充てていた。しかし、手間と時間がかかるため、これを札差商人に手数料を払って委託するようになっていく。その手数料は米100俵につき金1分であった。先祖代々の殿から頂いている年俸は上がらない。しかし、物価は年々上昇した。このジレンマは年を追うことに拡大、毎年支給される米を担保に、札差たちが示した年利15~20%の高い貸付金利をそのまま呑み、借金を重ねていった。武士としての格式を保つための一面もあった、旗本・御家人の困窮は、札差たちにとって暴利、成金となった。幕臣たちの借金残高総額は120万両に達した。彼らの利息の支払で、新吉原や辰巳で派手に遊び回った。歌舞伎十八番「助六縁江戸櫻」の主人公、花川戸の助六はこの札差商人たちがモデルだとされている。手数料をとっていた手間賃稼ぎから、次第に金利で稼ぐ金融業へと向かっていった。俸禄米のシステムにのって暴利を重ねてきた札差商人たちは、享保年間(1716~36)109の株仲間を持ち、俸禄米を担保に武士への金融業で財産を築き、独特の文化、流行を生み出していったが、松平定信の「寛政改革」による「棄損令」により、また水野忠邦の「天保改革」による「無利子年賦令」で、打撃を受け衰退、没落をしていった。一方、借金が棒引きにされ、生活は一時的に一息ついた旗本・御家人たちは、その体制が続くかぎり、昇給なしの物価高の生活が続くかぎり現状は変わらず、また元の借金生活に戻っていった。
米の価格は豊作、不作によって大きくい変動したが、江戸期金1両で買えた米の量は、江戸初期に約350㎏買えた米が、中期から後期になると150㎏、幕末の慶応3年頃になると、その5分の1から10分の1の、15~30㎏しか買えない、(1両≒¥10万とすると、5㎏入りの米袋が3~6袋)超インフレ物価となり、米価高騰が慢性化した。米と金の二重構造の崩壊はそのまま、幕藩体制の終焉となっていった。因みに、幕府財政書類は、慶応4年(1868)新政府へ引き継がれることを避け、本所の御竹蔵で焼却され、現在に伝わるものはない。
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