5 江戸の三貨と武士の生活

 慶長5年(1600)「関ヶ原の戦い」に勝利した家康は、翌年貨幣制度を統一、全国の主要な鉱山を直轄領とし、金座・銀座・銭座を設け、この三貨を全国共通の正貨として、貨幣鋳造権を独占した。我が国の貨幣には、江戸幕府が公的に発行した三貨に加えて、各藩が個別に発行した領国貨幣と呼ばれる、主にその領内で使用された鉄、鉛、紙などを素材にした「藩札」があったが、藩札の多くは元禄期(1688~1704)に消滅していった。金貨は計数貨幣で大判、小判、一分判など、1両=4分=16朱の四進方であった。「慶長大判」の金含有率は68,4%、重さ44匁≒165g、主に贈答、献上用に使われた。「慶長小判」の金含有率は87%、約17,9g、「慶長一分金」は小判の1/4の価値で68,4%、約4~5g、短冊形の板金であった。これらの慶長金貨は、江戸期を通じて最良質の貨幣であったが、元禄8年(1695)8月、改鋳益金の取得による幕府財政再建を目的として、当時の勘定奉行萩原重秀の建議で始められた改(悪)鋳により、慶長金銀に雑分が加えられたため(元禄小判金含有率57%)、金銀相場が混乱し物価高騰、その結果、江戸市民、武士階級は慢性的インフレに苦しむ事になる。一方で、幕藩体制も崩壊の危機を深めていった。

 慶長14年(1609)幕府は三貨の交換比率(公定歩合)を、金1両=銀50匁=銭4貫文としたが、元禄13年(1700)銀相場の下落に合わせ、金1両=銀60匁=銭4貫文とした。銭相場は明和年間(1764~72)金1両に対し銭5貫文、幕末の慶応年間(1865~68)には、金1両に対し銭10貫文に高騰した。この変動率に合わせ三貨を交換したのが両替屋、金と銀の両替を「本両替」それ以外は「脇両替」と呼ばれ、金・銀・銭の両替を「三組両替」銭のみを扱う両替を「番組両替」と呼んだ。本両替をした「本両替町」は常盤橋御門外に金座と並んで、東は駿河町、南は北蛸町、西は外濠、北は金座、本革屋町に接していた。承応年間(1652~54)以前は、金銀の両替はここと駿河町の二町だけであった。江戸時代を通じて両替商人たちは、こうした相場の変動に合わせて次第に自己の立場を利用し、貨幣相場を操作、投機的取引によって巨額の富を得、その富をもって幕府中枢と癒着、更なる富を築いていったのは、現代の構図とかわらない。

<金座> 金座は文禄4年(1595)、家康が秀吉の金貨鋳造を担っていた、彫金師後藤庄三郎光次を江戸に招いて、金貨鋳造を管轄(御金改役)させた事に始まる。庄三郎光次は本石町2丁目(現日本銀行)に役宅を構え、金貨の鑑定、極印、包装を司どった。実際の鋳造は小判師たちが行った。駿河、京都、佐渡、後に甲府にも設置されたが、その後、江戸に統合されていった。「金座」とは、勘定奉行が管轄した、金貨の鋳造、鑑定、検印を行う場所若しくは組織をいう。公式には慶応4年(1868)4月17日、官軍によって金座、銀座が占拠され、明治2年造幣局に吸収され廃止となるまで続く。金貨銀貨の鋳造は勘定奉行支配の用達(ようたし)町人が代行した請負制で、原材料の確保。貨幣の製造、検査などを、慶長小判では鋳造ごとに額に応じ1%(歩一、ぶいち)天保小判は2%の手数料を受けて行っていた。金座の組織は①御金改役役所(新鋳造金貨の鑑定と極印の打ち込み、後藤家の世襲)➁金局(座役人の事務所で鋳造作業全体を統括)③吹き所(座人の監督のもとに小判師が徒弟を使って金貨を鋳造した鋳造工場)からなっていた。

<法馬(ほうま)分銅>分銅形に鋳造された金銀塊の事をいう。秀吉が天正大判1000枚に相当する千枚分銅を鋳造させて、大坂城に貯蔵したのが始まりとされる。家康もこれに倣い非常時に、この金銀の分銅を金貨や銀貨に鋳造し、想定外の支出に充てていたが、その在庫も飢饉や火事などの災害や、寺社の造営、歴代将軍や大奥、諸役人の浪費によって消えていった。家康の遺産は江戸城、大坂城、二条城、駿府城、甲府城、佐渡奉行所などの御金蔵に蓄えられた。江戸城でのこの管理は勘定奉行ではなく、江戸城留守居役が当たった。大奥取締や各城門の通行証の切手などの発行を把握していた役職である。江戸城では、当初本丸天守閣の下の穴倉に金貨、銀貨、分銅が収められていたが、明暦の大火(明暦3年、1657)により溶解して塊状になってしまった。この為、正徳2年(1712)本丸内の蓮池御金蔵、奥御金蔵に移管して、金銭の出納に当たった。手順書によると、部局が経費を勘定所に請求すると、勘定所はその内容を吟味、手形を部局と金奉行に廻す。部局はその手形により金奉行から経費の受け取りを受けるという仕組みであった。

<銀座>戦国時代、大名たちは金や銀の鉱山の開発に力を入れた。江戸期にかけ鉱石の産出量は激増、銀などは世界算出の約1/3に達したという。慶長7年(1602)佐渡の銀産出量は1万貫目≒37500㎏に達し、金の産出量より多かったかが、産出量は徐々に低下、大森(岩見)銀山、生野銀山でも同様であり、貨幣の鋳造の支障をきたしていった。家康が、慶長6年(1601)秀吉に倣い、大黒屋を使って京近郊伏見に銀座を設立、やがて江戸「新両替町(中央区銀座)」に機能が集中したが、元禄の頃の汚職が寛政12年(1800)になって発覚、蛎殻銀座(中央区人形町)に移転、維新まで続く。新両替町が銀座と呼ばれた所以は、慶長17年(1612)、駿府にあった銀座を現在の銀座2丁目の東側に開設したことからに始まる。三十間堀を使って鉱石、燃料を搬送、2丁目で鋳造、1、3丁目はそれに連携した役所、4丁目には両替する店が立ち並んで、江戸期の1~4丁目は、職人町、工業地帯であった。銀貨は「秤量通貨」で、銀の地金がそのまま貨幣化したものである。「慶長丁銀」は銀含有率80%、重さ40匁≒160g、ナマコ形で薄く作られた取引の際に、切遣い(きりつかい)といわれ、必要量が切り取られた。その後に発行されたのが含有率同じく80%の「小玉銀」、重さ5匁≒18g、大粒なものは「豆板銀」細粒のものは「露銀」と呼ばれた。小判が秤にかけて量目を合わせた一枚分の地金を叩き延ばして作るのに対し、丁銀は湯の中に敷いた布に、溶かした銀の地金を適当な量だけ流し込んで作る。小判は厳密に1両分でなければならないので鍛造になるが、丁銀は量を測って使う貨幣のため、流し込んで造る鋳造で良かった。品質を保証する意味で、大黒屋の刻印が打たれた。

<銭座>寛永13年(1636)、幕府はそれまで宋銭や明銭など大陸の銭貨に切り替え、「寛永通宝」を発行した。中国の銭貨は種類が多く、加えて、粗悪なものが多く、幕府経済に混乱をきたしてきたため、銭貨を統一する必要があったためである。13年に江戸市中に2ヶ所、近江坂本に銭座を設立、翌14年には、需要に応えるためと中国銭を駆逐するために、全国8ヶ所を新設した。当初は請負人に鋳造を請け負わせ、鋳造した銭貨の一部を運上金の形で原則1割程度を幕府に納めさせた。浅草橋場、深川八万坪、亀戸など、常設ではなく14回も場所を変えた。その後不正や銭貨の下落、原材料銅の産出量の低下などの理由で、明和9年(1772)以降は、金座や銀座が銭貨の鋳造も担当していった。銭貨は銅、錫、鉛などの金属を溶融させ合金として、500匁毎に小包され、銭の吹所に送られた。ここまでを「大吹き」と呼んだ。次に鋳型に流し込み、冷却させたものに縄などをこすって光沢を出し、製品とした。これを「研場」と呼んだ。江戸中期以降、庶民の通貨、銭貨は1文≒現在の価格で¥25也、居酒屋の飲み代、銭湯代など、大いに多用された。

 





 

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