4 幕府粉飾決算
天正18年(1590)江戸入府。三河、遠江、甲斐、信濃6ヶ国、100万石ほどの大名であった家康は、国替えによって北条氏旧領地約240万石、近江国の約10万石を合わせ、約250万石の大名となった。その内「直轄領」は約100万石、残りは家臣たちに分け与えられた。対し、秀吉の直轄領は約220万石、当時全国の総石高約1850万石の12%を占めていた。秀吉は国内の金、銀山を支配下におき、大名領地内の山からも、運上金の名目で金、銀を徴収した。その秀吉の死後、慶長5年(1600)「関ヶ原の戦い」によって、豊臣方に味方して改易となった大名家は88家、その総石高は416万1084石、これに加えて毛利家、上杉家がそれぞれ120万石から30万石に減封されたように、5家が減封され没収された総石高は、208万2790石、更に豊臣家直轄領を含め、家康に没収された所領は併せて約780万石に上った。実に全国総石高1850万石の約40%を、家康は「関ヶ原の戦い」によって、自己の個人資産としたのである。 これを元手に論功行賞が行われた。780万石の半分以上の約425万石が、味方した大名たちに加増された。これは関ヶ原に息子秀忠が遅参したため、その穴埋め分を豊臣恩顧の大名たちに大盤振る舞いをせざるを得なかったためである。この後幕府は何代もかけ、難癖をつけたりしてこのツケを回収していくことになる。この他に220万石を徳川譜代の家臣たちに与え、残り130万石を新たに直轄領に組み入れた。直轄領は従来の100万石を併せて230万石となった。この230万石の直轄領は、歴代将軍のなりふり構わずの諸大名たちへの改易、取り潰しによって、元禄年間(1688~1703)には約400万石に達し、享保16年(1730)には、新田開発に力を入れた結果、当時の日本総石高約3000万石の15%を占める450万石に達した。徳川幕府が日本一の資産家になり得たのは、広大な直轄領を有していたためである。当時は直轄領を「御領」「御領所」などと呼んだ。「天領」という名称は維新後のことであり、江戸時代には使われていなかった。維新後、幕府直轄領が天皇家、朝廷の直轄領になり、「天皇領」と称された事から、天領と呼ばれるようになった。
幕府直轄領(幕領)は、大坂、京などの主要都市、堺、長崎、飛騨高山など交易都市、佐渡相川、伊豆土肥金山、石見銀山、足尾銅山などの鉱山などである。これをを統治したのが、勘定奉行、現在の財務大臣である。幕領が多かった地域は、関東、東海、畿内などであり、佐渡、壱岐など島国は、まるごと幕領であった。逆に薩摩、大隅の島津領には幕領はなかった。また、遠隔地の幕領に代官などを派遣することは経費がかさむため、壱岐を松江藩松平家に任せたように、近隣の大名たちに委託した。こういう幕領を「預地」と呼んだ。勘定奉行は幕領の支配と共に、幕府財政の切り回しも担当し、訴訟、裁判など民政を担当する「公事方」と、徴収した年貢米を換算して換金、財源とする業務、主として金穀出納などの財務関係を担当する「勝手方」のふたつの係に分かれていた。また、郡代や代官たちに年貢の徴収や鉱石の採掘に当たらせ、都市部には京都所司代、大坂城代をおいて、朝廷や西国大名たちににらみを利かせていた。
元禄年間の幕府財政の歳入約400万石は、幕領からの年貢、直轄鉱山からの金、銀などの鉱石が幕府の二大財源、これに長崎貿易の収益、都市部の商工業者たちからの運上金などで賄われた。これに対し歳出は、幕臣である旗本、御家人の俸禄、大奥や役所の諸経費、火事や自然災害の復旧、寺社の造営、補修に充てられた。家光の時代頃までの約半世紀、家康が残してくれた遺産で何とか賄えたが、それ以降幕府は、慢性的赤字決算に陥ちいっていった。この自転車操業をつないでいったのが、改(悪)鋳に次ぐ改鋳である。採掘した鉱石を原材料として、貨幣を鋳造した「貨幣発行権」を独占していた幕府は、その都度、莫大な収入を得ていた。流通経済が盛んになると、貨幣量が不足する。本来の貨幣量の増量を目的とし、また、金座の手数料は鋳造量に比例する形で、報酬が支払われていた。しかし、佐渡金山など金の産出量が次第に減少、それにスライドした鋳造量の減少=手数料の減少を打破する目的で、それに加えて人的浪費と云える、5代綱吉母桂昌院による寺社造営費用など22万4600両の増加で、元禄7年は(1694)は10万5400両の赤字となった。幕府は赤字補填のため、元禄8年から正徳元年(1711)までの間に4回改(悪)鋳を断行した。元禄8年8月、それまでの慶長小判に雑分を加え、金含有率を2/3に落とし、金貨には銀が加えられ、小判・一分金は数量をもとの1、5倍に、丁銀、豆板銀は1,25倍にと、(金含有率87%の慶長小判が57%の一分金に悪鋳)低品位の貨幣が発行された。金の実質的含有量を減らした低品質な「元禄小判」の発行により、幕府はこの間427万6800両の差益金という利益=「出目(でめ)」を獲得した。その結果インフレに傾き、市井の物価は高騰、米価は3%以上高騰した。その仕掛人は当時の勘定奉行萩原重秀であった。この仕掛けにより ①貨幣数量は増大 ➁貿易による金銀貨の海外流出 ③更なる金銀産出量の減少 ④幕府財政の困窮を招いた。打ち出された「出目」は側用人柳沢吉保を通じて綱吉へ上納され、またもや綱吉や桂昌院の浪費、護国寺の造営、東大寺大仏殿の再建などにあらかた費いやされ、庶民の懐には「泡」だけが膨らんだ。加えて「生類憐みの令」が間断なく施行され、江戸に住む人間様は犬に忖度する毎日が続いた。結果、元禄という時代はひとかたまりの富める者の「元禄文化」の仇花が咲いたのである。これを新井白石は「陽(あらわ)に与えて陰(ひそか)に奪うなり」と非難した。この事件は6代家宣の時代の正徳4年(1714)発覚、「銀座(銀座2丁目)」は酒井雅樂頭屋敷跡1870坪の日本橋蛎殻町(人形町1丁目)に移転、「蛎殻銀座」として明治初期造幣局が設立するまでその任務をこなした。また、汚職した役人たちは遠島、追放に処せられた。貿易面でも悪影響を及ぼし、長崎では悪鋳貨化した金銀貨の取引から、干鰯やフカヒレなどの俵物や、銅などの代物替えへとシフトがなされた。この事は反面、日本国内からの金銀の流失を食い止める狙いもあったというが、怪我の功名的でもある。またいつの世にも悪い奴らははびこるが、この時代にも賄賂が横行した。受注規模に応じて紀文などの材木商が、「立物(たてもの)」なる賄賂を工事責任者に納め、この賄賂の額の多い者順に工事が落札され、更に完了後には新たに礼物(れいもの)を献上、幕府中枢部との癒着が図られていた。これらの資金は全て工事代金に反映し、材料費、人件費の高騰、材質、製品の悪化へと繋がっていったのは、昭和平成令和における官公庁受注、民間商取引と同様である。いつの世も「悪い奴ほどよく眠り」悪事を重ねていった。
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