第8章江戸っ子たちの江戸的生き方 1江戸気質① ㋑

 江戸気質が生れた背景には、江戸の町が全国の人間の掃き溜めの町であったことが背景にある。参勤交代で諸国からくる浅葱裏の武士たち、上方からきた江戸店の奉公人たち、一茶のように農閑期に地方から出稼ぎにきた田舎の椋鳥たちが、そのまま帰らず椋鳥から江戸雀になる人たち、それに加えてお家が取り潰され勤め先を失った諸国の浪人たち、江戸は必然的に全国からきた人間の掃き溜めになっていった。彼ら江戸へ移住してきた人たちを、親の代から江戸に住んでいたり、たまたま子供の頃江戸に生まれたか、その辺りの片隅に生まれた自称「江戸っ子」たちは、自分たちは将軍様のお膝元に生まれ、水道(すいど)の水で産湯をつかった生粋の人間であると馬鹿にした。自分たちがほんの少し前まで、片田舎の田圃の隅に住んでいたご先祖さまを忘れ、田舎の江戸っ子たちが地方からきた人たちを馬鹿にした。こうして田舎の江戸っ子たちは東夷、東国者、江戸者であって、江戸っ子と言っても何も自慢できるものはなかった。そうした貧しい環境の中で、少しずつ江戸前、江戸風といった「上方」とは異なる生き方、考え方が芽生えてくる。自分たちが今住んでいる江戸の町をより一層住みよい町にしょうとする人たちによって、「江戸気質」「江戸しぐさ」「江戸言葉」が生まれ、よそ者同士のいたわりの気持ち、遠慮、付き合い方が自然と生まれていった。生国を聞かない、年齢を聞かない、職業を聞かない、そうした気配りが、九尺二間の狭い空間を分け合って、生活している人々の暗黙の了解であった。こうした生き方が出来る人たちも、出来ない人たちも「江戸っ子」と云われる人々であった。

 江戸の小冊子「江戸自慢」は「人気の荒々しさに似ず 道を聞けば下賤の者たり共 己が業をやめ教えること丁寧にして 言葉優しく恭敬すること 感じるニ堪たり」と記す。そこには、口の利き方は滅法ぞんざいであるが、心優しい応対をみせてくれたり、粗末な形(なり)をしていても、立ち居振舞いが丁寧であったり、周りの人間をいつも明るいもてなしし、1人1人光る江戸っ子たちがいた。決して野暮でもなく、粗野でもなく、しみったれでもない、カラッと明るい人たちが、江戸の掃き溜めに集まり拡大「大江戸」を形成していった。「大江戸」と云う言葉は、田沼意次が政治を主導していた18th後半に登場する。荻生徂徠は元禄年間から享保年間(1688~1736)江戸が拡大してゆく様を「何処までが江戸の内にて、是より田舎也と云う境これなく、民の心のままに家を建てつつくる故、江戸の広さ年々広まりゆき」と記している。江戸の町はそこに住む人たちが、次第に上方からの縛りから抜け、生き方、考え方、しぐさなどが独自の「江戸前」を成長させていった。江戸は町は勿論のこと、そこに住む人間も大きく拡大していった。江戸気質の最大公約数は、目の前の人を仏の化身と思い、他人様の肩書きを気にせず、常に遊び心を持っている事である。江戸にきた米国人JBシュネルツェンは「江戸っ子とは進歩的な人間主義者で 和を以て良しとなし、誰とでも付き合い、新人をいびらず権威に媚びらず、人の非をつくときには、下を攻めず上を突き、外を飾らず中身を濃く、と云う思想を持った人たちである」としている。何とも目にしみこむ、耳の痛い言葉であるが、明治維新以降、大和民族は世界に追いつけ追い越せを目標に、他国に負けないように働いてきたが、江戸時代の人間が持っていた良さ、気質を、いつの時か何処かに置き忘れたまま、現代社会に至ってしまっている。また、そのことを我々現代人が気づいていないことが、なお問題となってくる。<チーム江戸>


 

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