「大江戸酒物語」Ⅶ 酒は百薬(厄)の長?
<燗酒>平安時代、酒は小鍋に入れられ直火で温められて飲まれていた。9月9日の「重陽の節句」から3月3日の「上巳の節句」までの寒い季節は「煖(あたため)酒=熱燗」が飲まれた。燗をやめることを「別火(わかれび)」とよんでいた。永禄6年(1563)来日したイエズス会の宣教師、ルイスフロイスは「我が国ではワインを冷やして飲んでいる。日本では酒を飲むとき、殆ど1年中温めて飲んでいる」としている。江戸期になっても、暑い夏でも冷たいまま飲むのは水くらいなもので、西瓜なども冷やしては食べなかった。甘酒は夏でも温めて飲み、俳句の上の季語は夏である。「甘酒を 夏のもんだと 誰(だ)がいふた」となる。江戸の儒者貝原益軒も「養生訓」で「酒は夏でも冷やで飲んではいけない。冷酒は脾胃を損ねる。また冬も酒は余り熱くして飲んではいけない。気がのぼせ血液を減らす」としている。世界的にみて酒を温めて飲むのは日本酒と紹興酒だけであるが、紹興酒は暑い時期は温めてない。江戸期の日本酒は温めてて飲むか、常温で飲んだ。常温の日本酒は「冷や」とよばれた。居酒屋では「チロリ」という銅製の容器に入れ湯煎して温め、それぞれの店では酒の癇には気を使い、専属の燗番を置いたりした。蔵元のレシピによれば、「ヤカンにお湯を沸かし、火から下して徳利を肩までつける。しばらくして徳利の底に手を触れられる位の、40℃前後の「ぬる燗」から45℃前後の「上燗」が適温だという。燗のつけ方で酒の味も違ってくるし、また、酒の種類によっても燗のつけ方は違ってくるという。酒を飲むこと即ち慶びであるが、学びでもある。温度によって店は色々な乙な呼び方をした。5℃雪冷え、10℃花冷え、15℃涼冷え、20~25℃冷や(室温、常温)、30℃日向燗、35℃人肌、40℃ぬる燗、45℃上燗、50℃熱燗、55℃を飛び切り燗と呼んだ。因みに「雪見酒」とは、雪の降っている状態か、雪が降りやんだ景色を楽しむことをいった。大川に舟を浮かべ、障子の隙間から対岸の雪景色を眺めながら、しつらえた炬燵の中で髱(たぼ)を相手に吞む熱燗の下り酒は、江戸粋人の冬の楽しみとされた。幕末の侠客、新門辰五郎も「酒は燗 肴は刺身 酌は髱(女性たちの襟足の髷)」とした。
<刺身>こうした燗酒のアテには刺身が旨かった。旧石器時代から動物や魚介類を生で食べる習慣があった。細切りの肉を酢に付けて食べていた。「ナマス」という言葉の語源はここからでたものだという。江戸初期になっても酢には殺菌効果があったため、調味料の主体は酢で、これにつけて鰹や平目を刺身にして食べていた。また淡水魚には「煎(いり)酒」が用いられた。煎酒は鰹節と梅干しに水や溜まり醤油を加え、半分になるまで煮詰めたものである。現在では醤油に山葵が定番であるが、江戸期においては山葵の葉が徳川家の家紋の三つ葉葵に似ていることから、幕府直轄領でのみ栽培が許されていた。従って庶民たちの口には入らず、代わりに酢や辛子が用いられていた。江戸下町の目の前は江戸の海が広がっていたが、江戸に住む身分の高い武士や大商人たちは、身の健康を考え魚を生身では食べなかった。刺身が一般的になるのは、明和年間(1764~72)深川洲崎に料理茶屋升屋ができてからである。天保11年(1830~43)に刊行された「包丁山海見立角力」の魚番付では、ベスト5は鯛、鱧、鰹、鱒、鮎。ワースト5は鰯、鯖、鰺、鮒、鮪で、鮪は「下魚」とされている。江戸時代の鮪は脂肪分の多いことが嫌われて、赤身の部分は醤油に漬けた「ヅケ」にされ鮨ネタとなった。現在では高級な素材脂身の多い「トロ」の部位は、長葱と共に醤油で煮られ「ネギマ鍋」となって食卓にのぼるか、畑の肥料に回された。特に大漁の年などは当時冷凍設備などがないため、猫もまたいて通る「猫マタギ」とよばれた。現代の和食通のグルメたちが聞いたら、泣いて悔しがる話である。しかしやがて、鮪と鰹専門の刺身屋も登場、1人前50~100文で売られるようになり、盛合せも出されるようになると、刺身は酒席を盛り上がらせる大きな素材となっていった。
<江戸の吞兵衛>「大生酔を 生酔が 世話をやき」と、酒を飲んだら先に酔った方が勝ちである。下手にしらふだと介護する方に回らなくてはならない。そうなると大変である。吠え騒ぐ本人は勿論、店に気を使い、周りの客にも気を使い、家までウロウロと送って行かなくてはならない。やっと家に着くと出て来たカミさんに「こんなに遅くまでぐでんぐでんに飲まされて可哀想に」可哀想なのはこっちの科白だ。勝手に飲んだのはそっちに転がっているお前さんの宿六だ。こうしてすっかり酔いが覚めた相方は、別の居酒屋を見つけて飲み直す事になる。「酔った明日 女房が真似る はずかしさ」こうしたことを何度か繰り返すうち、一緒になる前からのその傾向が、益々固定化され封建制度の一面でもある「夫唱婦随」が逆転、「婦唱夫随」とリーダーシップが取って代わられる羽目となる。現代でも生活スタイルは変わったが、その習性はしっかり受け継がれている。<酒合戦>飲むこと即ち慶びであり、生きている証拠でもあった江戸の大虎たちは「酒合戦」なるものを度々開催した。文化14年(1817)3月、神田川が隅田川に注ぐ柳橋の料亭「万八楼」での酒合戦では、47歳の男性は8升1合飲んだ後、飯を3杯喰い踊ってみせたという。また、30歳の大虎は3升入りの大杯で6杯半、1斗9升5合を飲み干した。因みに、この合戦に使われる大杯を「武蔵野」という。大相撲千秋楽に優勝力士が抱える朱杯がそれである。この盃が武蔵野の云われる所以は、平安の歌人が江戸に下り「武蔵野は 月の入るべき山もなし 草より出でて 草にこそ入れ」と、四方山に囲まれた京都に比べ、江戸武蔵野は何とも茫洋とした締まりのない土地であると嘆いて詠んだ歌にある。即ち広大で「裾野を見尽くせぬ」武蔵野の荒野を、酒が多すぎて「飲み尽くせない」大杯にかけて、これを「武蔵野」と呼ぶようになった。江戸っ子の洒落、言葉遊びである。
<牝の虎>こうしてみると江戸の町は男ばかりが酒を楽しんでいたように思われがちであるが、江戸は当時から「かかあ天下」の町、女性たちが飲まない訳がない。浮世絵を借りるなら、3代豊国は「江戸名所百人美女」のうち「墨水花暦」では、花見帰りで酔っ払い上機嫌で三味線を肩に、墨堤を千鳥足で歩いている若女房を描いている。また江戸後期の随筆「江戸繁盛期」にも、長屋のカミさんたちが茶碗酒で刺身を肴に、昼飲みを楽しんでいる場面が楽しく書かれている。カミさんたちにとって仲間たちとの情報交換は、長屋で生活していくためには貴重な仕事の内であり、それは現在のママ友たちにも共通している。
<酒は百薬(厄)の長?>こうして馬鹿吞みしてこの世とおさらばした輩もいた。「酔生夢死」江戸時代より以前、神代の昔から酒は自分の身の丈を考えて飲むのが1番とされた。「酒は百薬の長」であり、酒が自分にとっても周りの人たちにとっても「百厄の長」であってはならない。我が国はは統計によると世界一の長寿国である。高度に発達した医療に支えられて、大病しても長生きが出来るようになった。しかし、その中身の全部が他人様の介護を要しない、自立した生活を送れる期間、即ち「健康寿命」ではない。「平均寿命」から健康寿命を引いた年数は、介護を必要とする年数となる。最近では男性9年、女性12年前後であるという。「介護寿命」を如何に短くし、健康で長生きするのが個人個人の願いであり、将来にわたっての国の大きな社会問題となっている。べらぼうの蔦重は新吉原で接待三昧の暮らしを送った挙句、48歳でビタミンB1の欠乏症による脚気で他界した。片や稀代の浮世絵師、葛飾北斎は何度も引越を繰り返しながら、毎日娘の応為と麦飯、味噌汁、漬物、鰯、豆腐を食べながら勝手気ままに暮らし、88歳の健康な長寿を全うした。さて、みなさんはどちらを選ぶであろうか。「大江戸酒物語」了。
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