「大江戸酒物語」Ⅵ 地酒と居酒屋の値段
江戸時代、酒を飲ませることを目的とする「居酒屋」が出現するのは寛延年間(1748~51)である。独り者の多い江戸っ子たちには、飯も喰え酒も飲めるという事で大いに重宝された。ここで出される酒は「中汲」か白馬と呼ばれた「にごり酒=どぶろく」。どぶろくは日本酒の醸造過程で、醪(もろみ)を濾過せず、米粒感が残る白く濁ったままの酒で、平安時代は「獨醪」と呼んでいた。これが転訛して「どぶろく」となった。一方、「中汲」はどぶろくの上澄みと沈殿部の中間をくみ取ったもので、いずれも腹を温め懐に優しい値段であった。また、居酒屋によってはブランド品を置く店もあった。日本酒は古くなると酢になるというが、明治維新以前には、ウイスキーのように長く寝かせた古酒も珍重された。現在でも「熟成古酒」として数万というプレミアム品も流通している。この熟成古酒には公的な定義はないが「糖類添加酒を3年以上蔵元で貯蔵熟成させた酒」をそうよんでいる。文政年間(1818~30)に飲まれた「九年酒」は、1升が銀10匁(800~1000文、1文≒¥25 江戸買物独案内)。その頃、江戸庶民が高級酒とした池田の「瀧水」は1升で300文であった。江戸中期、居酒屋意で飲む酒の値段は、1文≒¥25と想定して1合が、極上酒32文、清酒24文、地回り品12文、中汲8文、濁酒4文であった。また1人前のアテの値段は、おでん、こんにゃく田楽、さば味噌煮、タコ足、鮪のネギマ汁は各品とも4文、醤油と鰹節でダシをとった鍋物は小50文、中100文、大200文であった。因みに鍋の素材は安永年間(1772~80)の頃から土鍋から、鋳物製の鍋に移行している。また、寛延年間以降には、何でも4文均一で細かな計算が要らない食べ物屋「四文屋」が登場、人気を博した。明和年間(1764~72)清酒1合24文の酒を2合ほど飲み、アテを3品ほど注文すると約100文ほどになった。1文を現代の価格に換算すると約¥25也。現在の居酒屋の値段¥2500~¥3000ほど、さほど価格差はない。
日本酒は地域は地域によって水や米、気候が違うため、その土地ならではの味や香りの酒ができる。これを「地酒」という。近江の「大津酒」摂津の「平野酒」西宮の「旨酒」加賀の「菊酒」などがそうであるが、江戸地回り地酒は、浅草駒形内田酒店製の銘酒「宮戸川」「都鳥」。吾妻橋東詰現アサヒビール本社地、細川家下屋敷の井戸水で造られた「隅田川諸白」。本郷追分の高崎屋が発売元である「江戸一」この酒は文政6~7年(1823~24)頃、江戸市中の酒の需要が急増した。これを当て込んで無名の地回り品が新川に多量に入荷されたが、これらは地回り品悪酒であったため売れなかった。そこで高崎屋がこれらを買い取り「江戸一」の名で売り出した。このネーミングと宣伝効果が奏して江戸の大虎小虎に牝の虎に人気を博した。高崎屋は現在でも同じ場所で小売り酒屋を営んでいる。またこの時期、「猿酒」なるものも飲まれていた。叡山坂本の行者が猿が造ったとされる酒を見つけて、それらを集めたのが猿酒と云われた。猿が食べ残した果実などが雨水に溜まり、発酵して酒もどきになるが、それを集めて市場にのせるにはリスクが多いため、予め販売業者がアケビなどの果実を計画的に発酵調整し、それを猿酒として販売したものとみられている。江戸幕府は「下り酒」ばかりでは、江戸から地方に金が流れるばかりだとして、江戸地元産の地酒の醸造に力を入れ「御免関東上酒」を造る一方で、元禄11年(1698)には摂津の蔵元に、原酒1樽につき銀6匁(金1両≒60匁)の税金をかけたり、「下り酒」の出荷制限などを行った。併せて、米の不作時には「減醸令」も出し、年間造られていた酒を「寒造り」に特化した。これにより酒の生産量が程々に調整され、米不足も解消された。加えて「冥加金」も安定して幕府にとっては好都合の政策であった。しかし、江戸の地回り酒は、何とも味が定まらなかった。江戸の土地の多くは埋め立て地のため、灘の宮水のような素晴らしい硬水と、「山田錦」のような良質な米に恵まれなかったためである。酒造りは杜氏たちの技によるものも多いが、江戸は何と言っても酒の主材料である水と米に恵まれなかったのである。
寛永年間(1624~42)に入ると、造り酒屋は当初は鼓型であったが、やがて1尺≒30,3㎝余りの球状になった「酒林」を、新酒が出来上がったという目印として、杉の葉を丸く束ねて蔵元の店頭に吊るした。次第に居酒屋にも吊るされるようになり、徐々に杉の葉が枯れていく様と新酒が熟成していく様とを重ね合わせて、江戸の大虎小虎に牝の虎の眼からアピールした。酒の神大国主命と少彦名神を祀る大神神社は、奈良県桜井市にある。この神社の背後に山そのもの御神体である三輪山がある。この山に生える杉が御神木と崇められ、酒林となって吞兵衛たちの心を刺激した。元禄年間(1688~1702)日本酒は総じて濃い味わいの甘口の酒が多かった。「御命講(御会式)や 油のような 酒五升」酒好きでもあった俳聖芭蕉翁もこのように、江戸時代の日本酒を詠んだ。水やお湯で割らない「原酒」をそのまま飲ませるのは蕎麦屋であり、八百善など高級料理茶屋ではお湯で割って提供された。加水できる酒を「玉のきく酒」とよんだ。当時の原酒はアルコール濃度が高く、味も甘みも濃厚であったが、玉割りした酒精度(アルコール度数)は、現在のビールと同じく5%程度であったという文献もある。現代の日本酒は予め蔵元で割水(加水)されており、アルコール度数が15~16%位で瓶詰めされている。ただし原酒とよばれているものには加水されていない。落語の世界では村を出た途端に醒める酒を「村さめ」、飲んだ後から醒めていく酒を「じきさめ」としているが、5%ほどまで割っても「下り酒」は風味を損なわず、延びがあってコクがあった。
この時代御家人たちの年俸は三両一分(賦)サンピン。月に金1分(1両の1/4)と玄米が1日5合、「居酒屋で 任官をする ケチな武士」と、彼らは就活の場として居酒屋を使っていた。また、1年中江戸で暮らす勤番武士たちは忙しい勤務もなく、毎晩のように酒と手料理を持ち寄って、呑み会を開いていた。彼らがたまに居酒屋で酒を飲む時には「四文二合半(しもんこなから)」と店に注文。1合4文の酒を2合半くれという意味である。「こなから」とは酒が2合半と云う江戸言葉である。一刻(いっとき)≒2時間の半分が半刻、その半分が小半刻≒30分というように、「小」は物事の半分の意味、従ってこなからとは「なから」5合の半分の2合半を指した。何とも江戸らしい、小気味よい粋な江戸言葉である。次回は終章「江戸の燗酒と酒は百薬(厄)の長?」をお送りします。「チーム江戸」しのつか でした。
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