「大江戸酒物語」Ⅴ 江戸湊と煮売り酒屋
下り酒は慶長3年(1598)頃から摂津国鴻池の酒屋が、当初2斗樽(後に4斗樽)二つを一駄として、馬の背に乗せ江戸に下り、大名家を廻り1升銭200文で売り捌いたのが始まりとされる。江戸幕藩体制の根幹をなす米を江戸へ搬入するためには、米の重量、産地の地域性といった性質上、水上輸送の他に活路を見出す方法はなかった。また、江戸時代初期、江戸の町は地方の一寒村であったため、急激に増加した人口に「地産地消」の形態がとれず、賄える物資は近郊の野菜類、江戸湾沿岸で獲れる魚介類であった。そのため消費物資の殆どを上方からの輸送に依存、江戸湊に廻航された。関西方面から江戸への廻航は、天和5年(1619)堺の船問屋が、紀州富田浦の船を借りて、米、木綿、油、酢、醤油などを輸送したのが始まりとされる。寛永元年(1624)菱垣廻船就航、寛文元年(1661)酒輸送に特化した樽廻船就航、両者は「弁財船」タイプで当初は500石程度で、帆櫓走兼用で水主(舟子)20乗りであったが、元禄年間(1688~1704)になると、千石から2千石に大型化され、帆走専用船となり、沖乗り航法など航行技術も改良され、水主15人乗りと労働力も改善されていった。安永元年(1772)積荷協定が結ばれた頃には、「小早(こはや)」と呼ばれた樽廻船が速度により優位性を持つようになっていった。
江戸時代の主なる航路に、河村瑞賢が開発した「東廻り航路」と「西廻り航路」がある。東廻り航路は裏日本酒田から日本海を北上、津軽海峡から三陸沖に廻り、銚子から川船に積み替えられて利根川を上るか、房総沖を廻り江戸湊に陸揚げした。一方、西廻り航路は当初東北や北陸の物質は敦賀、小浜辺りから琵琶湖を渡って、京、大坂へ搬送されていたが、寛文年間(1661~72)以降、日本海を南下、関門海峡から瀬戸内海、大坂航路が開発された。これらの航路の他に、自前の船でex松前のニシンや昆布を買い、酒田でそれを売り、その売り上げで酒田で米を購入、大坂で売るといった鋸商法で稼いでいった「北前船」もあった。「海の東海道」は、西廻り航路の延長にあった。「天下の貨七分は浪華にあり 浪華の貨七分は船中にあり」とまで云われた、当時の我が国総生産の半分近くを稼ぎ出した黄金の航路であった。下り酒の季節は、造り酒屋、水主、新川の酒問屋、そして何よりも下り酒を待つ江戸の大虎小虎に牝の虎たちにとって「黄金の日々」であった。
「湊」は物が集散し市場(値段)を構成する場所である。「江戸湊」の歴史は、開府当初「日比谷入り江」の最深部常盤橋御門辺りにあった。次第に相次ぐ江戸の町の埋め立て拡大につれ東進、慶長年間(1596~1614)ころは、浅草辺りから永代橋、新川・佃島、芝浦、目黒川河口の品川沖辺りまでの、隅田川右岸が江戸湊と呼ばれた地域であった。江戸港に着いた下り酒は、高瀬船、平田船に積み替えられて、日本橋川、神田川などの河岸地の「請酒屋」へ運ばれていった。江戸湊の中心は新川(中央区新川)、当時江戸の酒問屋は37軒であったが「新川は 上戸の建てた 蔵ばかり」と、その7割が集散していた。元禄10年(1679)江戸湊に入津した下り酒は64万樽、享保2年(1726)82万樽、天明2年(1782)97樽に達した。これに三河産等の「中国酒(なかぐにしゅ)」や、江戸地回り酒など10万樽が江戸に入ってきた。この数字は河岸地近くに構えていた各大名の下(蔵)屋敷に直接入荷した下り酒は含まれていない。あくまでも新川の酒問屋が把握した入津量である。江戸の町の人口は、文化文政期(1804~29)ロンドン、パリを越し、120万から130万に達していた。江戸庶民はその半数の60~65万、その約6~7割を飲酒人口と想定(江戸時代は今のように飲酒に対する年齢制限がなかったため子供たちも飲んだとされる)して36~42万人、消費された酒の総量100万樽(1樽3,6斗入≒3600万升を36~42万で均等に呑んだとすると年間85升、毎日吞んだとして約2,3~2,8合飲んだ計算になる。現在では1日3合毎日飲むとアル中だと言う。江戸の大虎小虎に牝の虎たちは,このギリギリの線で体に気をつけながら、毎日下り酒を楽しんだことになる。因みに江戸の堀割り(湿地帯の埋め残し部分)は、明暦の大火(明暦3年、1657)以降から元禄10年(1669)頃に完成されたものが多く、水上輸送の保持、運営、管轄は町奉行所の「川海掛り(現代のの交通課)」で、河岸町地の課税対象は面積ではなく「小間割」といって、公道に面した間口の長さで決められた。特に水路に面した地所は一般の小間割に対して割高であったが、公道を含め軒先から、河岸の水際まで自由に使用することができた。これらの掘割は江戸時代から戦後の昭和20年代、東京オリンピックの昭和39年辺りまで、都市機能を支え、人々の物資や移動を担ってきたのである。
慶長5年(1600)「関ケ原の戦い」に勝利した家康は同8年、江戸に幕府を開いた。臣従した大名とその家来たち、江戸の町造りに集められた商人たちと建設集団、江戸の町は男社会になっていった。江戸初期の男女比率は男3に女が1,中期になって2対1、均等化するのは幕末になってからである。町にあふれだした男の単身者を当て込んで、明暦大火後、浅草浅草寺前に煮売り茶屋の奈良茶飯屋が開店した。この頃から1日3食の習慣が生まれたという。奈良屋に続いて江戸の町には続々と「煮売茶屋」が誕生、茶飯、豆腐汁、煮しめ、煮豆などが売られ、こうした店で酒も出すようになり「煮売酒屋」と呼ばれるようになる。酒も飲め腹も満たされるということで、江戸の町に広まっていった。煮売り酒屋の店内は、空樽の上に板を渡しただけの簡単な腰掛けか、長椅子のような床几があり、客はそこに斜めに腰を下し、片足だけを胡坐をかくように座った。そうした姿が神社の随身門で門守をする「矢大臣」の格好に似ているため、こういう客を矢大臣、やがて居酒屋そのものをそう呼ぶようになった。また、居酒屋の照明は、高級料理茶屋の百目ロウソクはとてもじゃないが高く使えないため、「八間(八方)」と呼ばれる、現在のシャンデリアのようなものを天井から吊るして灯りを取った。しかし、光源そのものが行灯のようなものであったため、何とも淋しい雰囲気であった。
元禄年間(1688~1703)頃から新川の酒問屋から酒を買い、酒を小売りする「請酒屋」の店頭で酒を立ち飲みさせる店も出てくる。現代でいう、所謂「角打ち」である。請酒屋で居ながらにして酒を飲むことを「居酒」と云い、店内には最上等の諸白から濁酒まであり、田楽や芋の煮っ転がしなど簡単なアテを出すようになっていった。天明8年(1783)の町奉行所の調査では、煮売り酒屋は1803を数えた。元禄時代江戸の大虎小虎に牝の虎に人気を得ていたのが日本橋新泉町の四方(よも)酒店、池田の「瀧水」が売り物だった。他に外神田昌平橋外の内田酒店もあった。しかし、何と言ってもスーパースター的存在の人気を誇ったのが鎌倉河岸(千代田区神田美土代町)の豊島屋であった。(HP<江戸花暦>を参照)慶長元年((1596)創業したこの店は、下り酒を1合8文(1文≒¥25)、市中の豆腐の値段が1丁28文であった頃、豆腐田楽を2文で販売した。この儲けのない商売を何で補っていたのか、沢山出される酒の空樽を銀1から1,2匁(金1両≒銀60匁)で、醤油屋、味噌屋、漬物屋などへ転売して利益を確保していた。また、毎年2月25日から売り出す「ひいな祭り」の白酒が、交通整理を行う程の混雑ぶりを見せ、1日1400樽を売り上げ、魚河岸並みの「日に千両」の売り上げを示したと云う。次回はいよいよ江戸の地酒と居酒屋に迫ります。
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