「江戸酒物語」Ⅲ 黄金の海の東海道
天正18年(1590)家康江戸入府、慶長8年(1603)に幕府が開かれる以前、江戸で飲まれていた酒は、伊豆で醸造されていた「江川酒」であった。現在でも通ずる「下り酒」は慶長3年頃から、摂津国鴻池の酒屋が当初2斗樽、後に4斗樽を馬に乗せ、2樽を「一駄」として江戸に下り大名家を廻り、1升銭200文(1文≒¥20)で売り捌いたのが始まりとされる。しかし、江戸経済の根幹をなしていた「米」の移動は、その分布、物資の性質上、船=水上輸送以外に選択肢はなかった。また、馬方1人が賄える労力はせいぜい馬10頭、船長23~27mの弁財船タイプの「千石船」は、千石の米を水主(かこ)20人程で江戸へ搬送した。1石≒25俵、1俵≒4斗。馬1頭2俵×10=20俵分の1250倍の米を千石船は運んだ。江戸幕府は「島原の乱」以降、大型船の建造を認めなかったが、商船に限り千石以上の建造を認めていた。黄金の航路となる「海の東海道」、大坂から江戸への廻航は、天和5年(1619)堺の船問屋が紀州富田浦の船を借りて、木綿、油、酢、醤油などを輸送したのが始まりとされている。寛永元年(1624)「菱垣廻船」就航、寛文元年(1661)酒樽に特化した(隙間に紙類や金物などの荒荷を積み込んだ)「樽廻船」就航、共に海の東海道を担っていった。菱垣廻船は両舵に垣立(かきだつ)と呼ばれる舷墻(げんしょう、外舵に沿って設けた鋼板の囲い)が付けられたが、そこに装飾として菱垣の模様を付けたのが、この名の由来であるという。また、両舷に竹や木で菱垣の垣根を作って、荷物の落下を防いだことが由来となったとの学説もある。
「小早(こはや)」と呼ばれた樽廻船は、化政期(1804~29)の頃から増加をみせ、天保6年(1853)には保有隻数940艘に達した。この船には色々な利点があった。①船首は「水押(みよし)」と呼ばれた水切れのよい船首材を使い、スマートなフォームをしていたが、船体部分は船底が深く、ずんぐりとした構造となっていた。このため横波に強く、大きな帆を張ることができた。②当初は稲で編んだむしろ製の帆を使用していたが、貴重な風を逃さないために、メッシュ度の高い綿布を二重に使用、これにより船の航行速度は飛躍的に向上した。③更に樽廻船の速度を上げた技術向上は、「間切る(まぎる)」と云う航法であった。向かい風に対応するために真正面からの風以外、正面60度の風なら帆を巧みに操り、際どい角度の風を逃さず波を切り、船体をジグザクに進行させた。これにより「風待ち」といった一見無駄な時間、休憩時間を省き、航行日数を稼ぎ、航行日程をたてやすいメリットをもたらした。④また、初期の航法は幼稚であったため、沿岸沿いに目標をみながら、位置を確認しながらの「地乗り航法」をしていたが、中期以降、現在のように海図や磁石、夜間は星座を観測しながらの「沖乗り航法」に進化、夜間航行も可能になり、座礁のリスクも軽減されていった。しかし、樽廻船にも欠点があった。船体が哺乳類のように肋骨構造でなかったため、強度がなかった。また、荷物の搬入に便利なように甲板が揚板式であったため、ひとたび嵐に遭遇、大波に洗われると船はたちまちのうちに「水船」となった。こうした災害に備え、水主たちは自分の命と船を守るために、「荷打(にうち)」といって積荷の一部を海中に投げ捨てた。捨てられた積荷は、荷主が「振合力(ふりごうりき」として分担して負担した。また、最悪船が難破した場合は、酒問屋などが独自の組合を組織、そのリスクを「振分散」した。樽廻船もう一つの欠点は、やはり荒天時の際は、舵が船に吊るされた構造であったため、荒波で船体が浮いた場合、舵が取られて難航した。こうして小早と呼ばれた樽廻船は、輸送速度が速く仕立て日数が短かった。こうしたことから、安永元年(1772)積荷協定が結ばれた頃には、航行日数の少ない樽廻船が優位を占めるようになっていった。新酒は毎年10月から11月にかけて入津した。西宮から「江戸湊」まで元禄期(1688~1703)は約1ケ月を要したが、幕末になると上記の通り諸条件が改善され、約2週間に短縮された。樽廻船の時速は約6,6ノットを超え、安政6年(1859)10月15日、風がよほど良かったせいか51時間で江戸湊へ入津した記録が残る。「帆をかぶる 鯛のさわぎや 薫る凬」其角。
「湊」は、船が立ち寄り、物が集散し、市場(値段)を構成する場所である。江戸湊の歴史は開府当初、「日比谷入り江」の奥、「常盤橋御門」の辺りに立地していたが、相次ぐ江戸の埋め立て、拡大に連れて東進、慶長年間(1596~1614)には、浅草辺りから永代橋、芝浦、目黒川河口の品川沖辺りまでの隅田川右岸を指した。特に繁栄を極めたのが佃島の対岸「新川」であった。「新川」という掘割は、万治2年(1659)河村瑞賢が亀島川から隅田川右岸までを開削、長さ590m幅11~15m、一の橋から三の橋まで架け、その左岸を下り酒の、その右岸を下らぬ地回り悪酒と呼ばれた酒問屋街とした。江戸の下り酒問屋は総数37軒、その約70%を新川が占めた。「新川は 上戸で建てた 蔵ばかり」江戸湊に入津した下り酒は元禄10年(1697)64万樽、享保2年(1726)約82万樽、天明2年(1782)になると下り酒約97万樽、これに中国酒と個別に中川と橋場で厳重な検査を受けて入津した、地廻り酒が加わり併せて約10万樽となった。これらの数値いずれも新川の酒問屋を経由した数値で、隅田川や各掘割沿いに立地している各大名家の下屋敷=蔵屋敷に搬入された数値は含まれていない。江戸の人口、文化文政期(1804~29)120~130万を数えた。世界第1位の大都会であった。これに対する日本酒の入津量併せて100万樽と想定≒360万斗=3600万升。飲酒可能人口、大虎小虎にこれに牝の虎を加えて約65%の≒80万人で、仲良く分け合って均等に365日毎日飲む計算で、毎晩の酌の量約1,2合。しかし、灘、伏見の下り酒は芭蕉が指摘した通り甘く濃口であったため、通は蕎麦屋で生のまま飲んだが、一般庶民はこれを湯で割って飲んだとされるため、この数値は更に膨らむことになる。毎日欠かさず3合以上の日本酒を飲むと現代人は、アル中と診断される。江戸の大虎小虎に牝の虎の江戸っ子たち、毎晩きわどい処で日本酒を楽しんでいた。流石ではある。さて、次回は江戸湊に入津した新酒が、江戸っ子たちにいかに楽しく、呑まれたかを追っていきます。「チーム江戸」しのつか でした。
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