「大江戸酒物語」大虎小虎に牝の虎 Ⅱ

<下り酒に下らぬ酒> 江戸っ子を自認するおじさんたちは、自分の価値観に合わぬもの、行動を「くだらなねぇ」のひと声で片付けた。明治維新以前、お上(天皇家)は京におわした。従って日本の中心、京が上であった。京から地方へ人が出かける事を、物質が移動する事を「下る(くだる)」と表現した。幕末、皇女和宮は当初いやいや江戸に下向した。江戸初期の頃は、関西方面(上方)から下ってくる品物は品質が良かった。反対に地方産(下らないもの)は品質が劣るというイメージがあった。従っておじさん達は不味いもの、自分の間尺に会わない「こと」「もの」を「くだらねぇ」。つまりおいらの価値観に合わぬものとして受け入れなかった。いい意味での自分たちのステータスを持っていた。

 天正18年(1590)江戸入府、慶長8年(1603)「関ケ原の戦い」に勝った家康は江戸に幕府を開いた。当時東国の寒村でしかなかった江戸の町に、臣従した全国の大名たちとその家来たち、家康が町作りのために呼んだ伊勢、近江などの商人たちや建設集団、それらを相手に商売する第3次産業の人間たちで、江戸の町はにわかに膨れ上がっていった。「地産地消」の形態をとれなかった江戸のお粗末な産業構造は、彼らが必要とする物質を、天下の台所と云われた大坂を中心とした、上方に求める、依存する以外に方法はなかった。①京からは絹織物などの衣料品 ②天下の台所大坂からは全国の農海産物、③塩は赤穂、竹原などの瀬戸内海沿岸の町から ④日本酒は灘、伏見の酒処から、千石船によって江戸湊まで回漕されてきた。江戸初期になると、日本酒の主産地は、奈良から摂津国(大阪府)の猪名川流域にあたる伊丹や池田、鴻池に移っていった。これらの地域は南都諸白や奈良酒の伝統を引き継いでいた。やがて江戸も中期になると、酒搬送に特化した弁財船の改良によって、大坂湾に面し水運に便利な、西宮、今津郷、魚崎郷、御影、西郷、下灘郷などの「灘六郷」の酒が人気となってくる。灘の酒は船便に好立地だっただけでなく、味も確かであった。

 現代でも灘、伏見の「下り酒」は旨い。その旨い訳はいくつかある。①先ずは原材料となる米がいい。播州(兵庫県)泉州(大阪府)で収穫される「山田錦」などに代表される大粒の米である。これを磨きに磨きをかけて麹にする。当初の足踏み精米から水車に転換させて精米歩合を上げた。こうすることによって脂肪分やタンパク質などの雑味が出るのを抑え、スッキリとした味わいをだすことに成功した。現在、本醸造は精米歩合70%、吟醸酒は60%、大吟醸50%以下となっている。大吟醸の酒は、米を従来の砥石ではなく硬い砥石で精米して、丸い米を細長い米に仕上げる。これによって米の中の澱粉質を余分に削らなくてすみ、効率的な工程になっている。②次は六甲山地を何千年、何萬年もかけてくぐり抜けてきた「宮水」。六甲山系から流れ出る武庫川や夙川の伏流水が海水と接触、貝殻層を通過する時にリン酸塩溶け出るが、これが麹菌や酵母の栄養分となって発酵力が高まり、濃醇な日本酒に仕上がるという。こうして造られた日本酒は加水しても崩れない「延びがきく」酒となる。珈琲もいい水、いい豆で淹れたものは、アメリカンにしても、珈琲本来の味と香りは損なわれない。③冷蔵庫のない時代、寒さ、冷たさは自然の環境にたよった。灘の造り酒屋の建物は、北側に大きく窓が開いている。この窓から冬場の「六甲おろし」を取り込み、杜氏たちが手を真っ赤にしてかき混ぜ、蒸した米を一気に冷ました。こうすることで酒に独特の甘みと深みが増した。④絞られ加水された新酒は、4斗樽に詰められて西宮の湊を出る。4斗樽の素材は吉野杉、樽の内側(新酒に接触する部分)は、杉の芯材、赤身の部分を使う。針葉樹の芯材からはフィトンチッドという、針葉樹独特の芳香素が含まれている。この香りが新酒の香りとブレンドされて、えも言えない馥郁たる豊潤な日本酒に仕上がる訳であるが、ここに人間様の知恵が入り込む。酒樽は4斗の液体が入るが、実質は1割減の3斗6升に留める。現代よくやる偽表示ではない。この空間が新酒を人間で云えば青臭い青年から、こなされたと言えば聞こえがいいが、海千山千の大人に成長させるのである。西宮を出航した樽廻船は大坂湾を南下、熊野灘紀伊半島潮岬を廻る。ここで沖縄、九州、四国からの黒潮に揉まれ、樽廻船の4斗樽は踊る。樽が踊れば中の新酒も踊る。潮岬を乗り切ると次は遠州灘御前崎、ここも富士火山帯の岩礁で、霊峰不二を左目に見ながら、船はまたも大揺れにゆれる。江戸草紙「萬金産業袋」によれば「造り上げられた酒は、その気甚だ辛く、鼻をはじき、何とも言えない苦みの有やうなれども、遥かの海路を経て江戸に下れば、飲むに味わい格別也。これは4斗樽の空間にて、波に揺られ潮風に揉まれたるゆえ、酒の性和らぎ味わい異になる也」としている。じゃじゃ馬がしとやかな貴婦人となるのである。灘の下り酒は馥郁たる「富士見酒」となって、江戸湊(中央区新川)に着いた。江戸っ子たちは「酒は富士見酒に限る」と褒め称え堪能した。これを知った上方の吞兵衛たちが黙っている訳がない。「飲むだけの江戸のやつらが旨い酒たらふく飲みやがって」。彼らは船を仕立て新酒4斗樽を積み、御前崎まで来て舵を面舵一杯に切り360度回転させ、富士を左右に見て新酒をエイトビートに十分に踊らせて、船を西宮に戻し祝盃を上げたという。享保2年(1802)大坂銅座に出張中の太田南畝(蜀山人)は「霊峰不二を二度見た酒なりて「ニ望酒」と云う也。本名は「白雪」という銘柄でいたって和らかで宜しい」としている。山は富士なら 酒は白雪となる。「天下の貨(あたい)七分は浪華にあり 浪華の貨七分は船中にあり」七分×七分 国家予算の約半分を「海の東海道」が産みだした。河村瑞賢が開いた「西廻り航路」延長線上の「海の東海道」は「黄金の航路」と呼ばれた。さて、このつづきはその黄金の航路を現実としたノウハウを探っていきます。

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