「芭蕉江戸滞在記」➁深川編
延宝8年(1680)冬、37歳になった芭蕉は、俳諧への自立性を求め、自然に倣う中で安らぎを得ようとして関口芭蕉庵を離れた。まだ、芭蕉がまだ「宗房」と称していた頃、仏頂禅師と親交し、禅師との参禅問答から得たとされるのが俳号「桃青」、そののち深川に来て門人の李下から贈られた芭蕉の株を大層気に入り、38歳の時に俳号を「芭蕉」と改めた。仏頂禅師が寛文年間(1661~72)に創立した臨川寺(当時は臨川庵)は、清澄庭園の北側、清洲橋通りにある。仙台堀海辺橋辺りにあった杉風の別荘採荼庵から千住大橋へ「おくのほそ道」に旅立って行った芭蕉一行は、黒羽に長逗留ののち、雲巖寺に参り仏頂和尚の山居跡を訪れている。雲巖寺は臨済宗妙心寺派の名刹で、栃木県黒羽町、東北本線西那須野駅からバス終点。降りると、朱塗りの柱に長い石段と山門が見えてくる。芭蕉は日本橋本小田原町から、川向こう深川に移り住み、元禄7年(1694)5月大坂で旅の生涯を閉じるまでの14年間、深川芭蕉庵を住み家とした。「蓑虫の 音を聞きに来よ 草の庵」。芭蕉は草庵からの眺めを余程気に入ったとみえ、天和元年(1681)作の俳文「乞食の翁」の中で、古代中国唐の詩人杜甫の詩「窓ニ含ム西嶺千秋ノ雪 門ニ泊ス東呉万里ノ船」を引用、深川芭蕉庵を「泊船堂」と名づけた。其角の弟子でもあった歌舞伎役者の二世市川團十郎は「老の楽」の中で、「深川のはせを庵、へっつゐ(かまど)二つ、茶碗十ばかり、菜切包丁一枚ありて、台所の柱にふくべ(瓢箪)が懸けてあり、二升四合ほども入べき米入なり」と草庵の簡素な生活ぶりをを記している。芭蕉は、自らを乞食と称し「芝の戸に 茶を木の葉かく 嵐哉」「雪の朝 独り干鮭(からざけ)を 噛む得たり」と、世俗的な生活を捨て貧窮に甘んじながら、俳諧に生涯を捧げようという気持ちを詠んでいる。
天正18年(1590)入府した家康は、摂津国の地侍深川八郎右衛門に、大川河口部左岸一帯の開拓を命じた。この時開発されたのが、現在の森下、常盤、猿江、住吉など小名木川右岸(江東区北東部)に広がる町々である。当時かこの川辺りが江戸の海(東京湾)の海岸線であり、小名木川は渚の向こう側に堤を築いて水路とした、行徳の塩を江戸へ運ぶため、中川と隅田川を結ぶ全長4,6㎞の流通網である。この小名木川は慶長年間(1576~1615)小名木四郎兵衛が開削、荒川放水路(現荒川)が完成するまでは行徳川とも呼ばれていた。名の由来は開削者の名によるものとされるが、江戸の頃は、河口部付近の石垣にウナギが多く生息していた。「江戸前」とは江戸的生き方、作法、又は江戸城の下、江戸の海で獲れた新鮮な漁獲物を指した言葉であるが、当初はこのウナギを指して江戸前と呼んでいた。従って小名木川以外で獲れた鰻は「旅鰻」と呼ばれ、故にこの川別名「鰻川」とも呼ばれていた。このウナギが転じてオナギ、小名木川になったとも言われている。江戸中期、江戸好みの地回り品醤油の開発され奥川廻しで江戸に運ばれるようになり、併せて調理方法の改良により寿司、天麩羅、蕎麦などと共に、江戸の四大ファーストフードと呼ばれ、江戸っ子たちの嗜好品となっていった。
深川の町は明暦3年(1657)に発生した明暦の大火後、創架された両国橋の架橋によって、また、江戸城から直角方向に延びる小名木川、堅川、仙台堀川、平行に延びる大横川や横十間川などの堀割りの開削によって、飛躍的に発展していった。小名木川の河口部、第一橋梁は「萬年橋」、その北詰西側に深川芭蕉庵があったとされている。萬年橋の創架は明らかではないが、延宝8年(1680)の江戸絵図には「元番所のはし」と記載されているため、それ以前のものとされている。寛文元年(1661)までは、北詰西側に船番所が置かれていた。その後小名木川上流、中川と新川の水の十字流の地点に「中川船番所」として移設された。この番所には、番所役人として任命された旗本3~5名ほどが5日交代で詰めていた。小名木川は新川を経て、行徳の塩をはじめ、江戸近郊の農産物、奥州産の米などを江戸に運ぶ、重要な物流網であった。歌川広重は「名所江戸百景」で第百五景「深川萬年橋」と題し、手桶に吊るされた亀と橋の欄干ごしに、白帆の舟とお馴染み富士山を描いている。また、葛飾北斎も「富嶽三十六景・深川万年橋下」と題し、群衆が行き交う太鼓橋の向こうに富士山を描いている。(拙書「江戸物語88」地之巻裏表紙参照)因みに萬年橋北詰西側から眺める清洲橋のシルエットは、ケルンの眺めとして隅田川随一の眺めとなっている。下流の永代橋の男性的のそれに比べ、女性的フォルムが隅田川の川面に映し出されている。
享保17年(1732)に刊行された「江戸砂子」には深川芭蕉庵の所在地を「芭蕉庵の址ハ 六間堀 鯉屋藤左衛門(市兵衛)ト云フ魚屋ノ生簀屋敷の所也」とし、「古池や 蛙飛び込む 水の音」はせを。コノ句ハコノ庵の句也。生簀ニ魚モ貯エズ藻草ウズミテ古池トナリシ此也。今ハ猶他ノ屋敷トナリシ也」と記している。また「江戸名所図会」には、芭蕉庵の旧蹟、同じ橋(萬年橋)の北詰、松平遠州侯(摂津国尼崎藩)下屋敷(紀州藩説有)の庭中にありて、古池の形今なお存せりといふ。この屋敷の主、松平遠江守忠吉は俳諧を嗜み、芭蕉庵が自分の屋敷内にあったことから、それに因んで石碑を建てたという。また、図会と同じ年代の文久2年(1862)版の切絵図には、遠江守下屋敷内に「芭蕉庵ノ古跡庭中ニ有」と注記が付けられている。元禄2年(1689)「おくのほそ道」に曽良と旅立って行く芭蕉は、この庵の柱に「草の戸も 住み替わる世ぞ ひなの家」と詠んで残していった。大正6年、下町を襲った高潮水害ののちに「伝芭蕉遺愛の石の蛙」が出土、ここに地元の尽力によって芭蕉稲荷神社が祀られ、同10年、東京府も旧跡に指定した。
貞享元年(1684)夏、芭蕉は門人の千里を伴い東海道を西へ、伊賀、大和、吉野、美濃などを廻った「野ざらし紀行」の旅に出た。題名は「野ざらしを 心の風しむ身哉」に由来する。江戸に戻ったのは翌年4月末である。同3年(1686)芭蕉庵で催した蛙の発句会で「古池や 蛙飛び込む 水の音」を詠む。この句は蛙が飛ぶ点に着目され、飛ぶことは動きではなく、静寂を引き立てるために用いる詩情性であると解釈された。こうした表現は過去にない画期的なものとされ、蕉風を代表する作品となっている。翌貞享4年(1687)夏、この年は鹿島の月を拝まんと曽良と定波を伴い「鹿島詣」に出発、続いて同4年秋には東海道鳴海から熱田、伊良湖、名古屋に廻り故郷伊賀上野へ入る「笈の小文」に出発と精力的にこなしている。そののち、吉野山、大和、紀伊を巡り、須磨、明石を旅して京都に入った。京都からの復路は岐阜、信州更科の姨捨山に同5年8月15日に着き、中秋の名月を鑑賞「俤や 姨ひとり泣く 月の友」を詠む。貧困から母親を山に捨てに行かねばならなかった、姨捨伝説で有名なJR篠ノ井線姨捨駅は、JR三大車窓のひとつで、ホームから眺められる善光寺平の眺望は群を抜く。併せて、日本人は三大が好きだが、三大名月の里の一つでもあり、日本夜景遺産でもある。この旅は「更科紀行」としてまとめられ、秋頃になって江戸に戻っている。正に健脚である。
元禄2年(1689)は西行500回忌。西行を師と仰ぐ芭蕉はこれを記念として曽良を伴い採荼庵から「おくのほそ道」に旅立った。白河の関から奥州平泉、山寺、出羽三山、象潟、加賀、越前と歌枕を訪ねて、多くの名句が読まれた。「荒海や 佐渡によこたふ 天河」8月下旬、結びの地大垣に着いた。約5ヶ月、600里の旅が終った。「蛤の ふたみに別 行秋ぞ」元禄7年(1679)5月、芭蕉は門弟たちの不仲を取り持つために再び江戸を発った。この心労が身体にさわったともいわれ、体調を崩した。10月5日、大坂南御堂の門前、花屋仁右衛門の貸屋敷に移り看病を受けた。10月8日、病中吟と称し「旅に病んで 夢は枯野を かけ廻る」12日申刻(pm4:00頃)息を引き取った。芭蕉翁の亡きがらは遺言により、舟に乗せられ淀川を上り、13日午後には琵琶湖南岸近江膳所の「義仲寺(ぎちゅうじ)」に運ばれ、木曽義仲の墓の隣に葬られた。義仲寺は京阪電鉄膳所駅下車、本尊は聖観音菩薩、別名巴寺。義仲の愛妾巴御前が義仲の墓の近くに庵を結び、日々供養をしたことに始まるという。俳人芭蕉はこの寺や湖南の人々、近江瀬田の風景をこよなく愛し、ここで度々句会を催し「亡骸は木曽塚に送るべし」との意思より義仲寺に送られた。「木曽殿と 背中合わせの 寒さかな」門人島崎又玄が」詠んだ句である。
次回は<江戸花暦>小さい秋見つけた・晩秋編をお送りします。「チーム江戸」しのつか
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