<江戸色彩の研究> 第1章 江戸の色 ①古代編
色に関する本能をもっているのは、ヒト、類人猿、サルのみであり、彼らは哺乳類のなかでも、色を区別しうる目をもっている。特に、ホモサピエンス・ヒトである、日本人の目は、他の外国人たちに比べ、多くの色を分析、見分ける事ができる、世界トップクラスの人類である。日本人は古より、季節の「うつろい」を、空の色や凬の音、植物の成長、鳥の鳴き声などから、感じとってきた。白から黄色、桜色から、藍、緑、茶と変化していく、自然のなかで、うつろう色彩に驚き、心をなごませ、癒されてきた。日本人の目は、四季の微妙なうつろいを感じとり、愛でる感覚が、自然と養われていったのである。色彩には、その時代によって範囲が変化する「伝統色」と呼ばれる領域がある。伝統色とは、日本人の特有の色彩感覚に基づいた色で、ex萌黄色、東雲色、茜色、本紫、利休鼠、卯の花色、縹色(はなだいろ)、瓶覗(かめのぞき)など、軽いアクセントと、イメージを膨らませる、響きのあるフレーズをもった色彩である。昔々馴染んだ色、青春時代の想い出での色、日本には1000種類以上の伝統色があるという。
大和民族の先人たちが、いつの頃から「色」を認識していたかは定かでない。赤、黒、白、青の、よっつの色名を「古代の色」という。これらの色はもともと、「色」を表わす、言葉に由来するものでではなく、「光」の色から生まれたものと考えられている。これらを明=赤、暗=黒、顕(けん)=白、漠(ばく)=青という四文字で表現、狩りが始まる夜明けから、空が赤く色づき、次第に周囲が白く拡がり、青空のもと狩りが始まる。やがて、太陽が草叢に沈みかけ、薄暗い漠の世界から、暗黒の恐怖の世界となる、1日を現わしている。 また、中国における色には、6th頃、仏教や儒教ともに伝来した「陰陽五行説」の色がある。この思想では、宇宙は「陰陽」と「木」青、酸味、「火」赤、苦味、「土」黄、甘味、「金」白、辛味、「水」黒、塩味の、五元素からなりたっており、その五元素の相生と相剋によって、循環しているという考え方でる。また、青は春、東を、赤は夏、南を、白は秋、西を、黒は冬、北と、四季と方角を表している。では、黄色は何処なの?という疑問となるが、古代中国においては、黄色は太陽を表し、全宇宙の中心とされ、従って、支配者皇帝を飾る色であった。刈安、櫨(はぜ)色、辛子色、う金色どが使われた。BC350年頃、古代中国斉の国(山東省北部)に生まれたこの思想は、我が国の宇宙観、政治、都市構想、宗教、思想など、あらゆる面で大きな影響を与えた。
仏教が伝来する以前の日本において、衣料は紙を漉く技術や、蚕を飼って絹糸を作ることも知らなかった為、麻や楮(こうぞ)、藤など山野に自生していた樹の皮を、砧で叩いて糸にして機にかけ、布を織りあげ衣料にしていた。神代の時代においては、白い布や糸は、最も神聖な衣服であった。しかし、麻などの内側の繊維には、タンニンが含まれているため、糸にした場合、薄い茶色の様な自然の色がつく。これを先人たちは晒して、白にする訳であるが、先ず木の灰を入れて煮沸、樹皮を軟らかくし、不純物を洗い流し、更に白くする為に太陽の紫外線を利用した。沖縄では、海水面すれすれに布を張る「海ざらし」、越後地方では、晴天の日に、雪の上に布を拡げる「雪ざらし」、奈良と京都の国ざかい、木津川の白砂の上に晒す「川ざらし」、宇治など茶畑のある地方では、茶の木の上に布を張った「丘ざらし」など、大自然を利用して漂白した。
古代日本において、染料として用いられていた植物は、少しの例外を除き、その染料全てが、当時の薬草であったことから考えると、薬草を身につけることにより、病気から身を護るという「色彩=健康」という思想があったと思われる。古代日本において、染料として用いられてきたとみられる植物名には、蘇芳(すほう)、紫根、櫨、茜、支子(くちなし)、楊、紅花、梅(やまもも)、藍、柘榴、橡(つるばみ)など、その触媒として、ワラ灰、真木灰、酢、泥、湧き水、石灰などが使われた。
「春はあけぼの やうやう白くなりゆく山ぎは、少しあかりて 紫だちたる雲の細くたなびきたる」と、平安の女流エッセイスト、清少納言は、春早朝の微妙な色の移ろいを、繊細に筆に載せている。平安の頃、櫻といえば山桜、白い花びらと赤い若芽が特徴の櫻である。春霞を通して見れば、その時代の人の目には、花は薄い桃色に見えた。色彩の名称を特定することは、その時代時代によって環境、表現が変化するため、極めて難しい事柄であったが、その曖昧さを、趣味人たちは心を躍らせ、句になり詩になり、メロディとなった。江戸っ子たちを活性化、物見遊山の心を弾ませる動機ともなり、江戸の消費を拡大させていった。
<日本色彩史>推古天皇11年(603)冠位十二階制制定、冠位を12の色で識別した。607年、遣隋使派遣、小野妹子らによって、藍や紅花が渡来したとみられる。延暦13年(794)平安遷都、この後の宮廷色彩は、本来の日本色彩の主流となっていく。12th、鎌倉時代に入ると、色彩の使用が貴族階級のみにとどまらず、一般民衆にも始まる。室町末期になると、木綿が実用化され、色彩が織物の一要素となってくる。地方に草木による染め、及び織物産業が生まれ、色が模様や織物の中に生きてくる時代となる。この頃の色の主流は、藍、茶、黒、白であり、色も武家型色彩時代となる。江戸時代、8代吉宗は「染殿」を造り、古代色彩の復活を図ったが、思う様にはいかず、民衆色の江戸紫などの藍染が全盛を極めた。幕末も近い安政3年(1856)、パーキン合成染料が発明され、色彩の世界は、世界共通の色彩の時代に入る事になる。
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